ひろゆきの本のおもしろさの話とか、中田敦彦の本のおもしろさの話をしていて、これを聞けばあなたもひろゆきの本読まずにひろゆきについて語れるので、聞いてみてください。
https://twitter.com/1004ki8/status/1667389143129952257?s=46&t=h9SuQ05EzvTkECiLetcnTA
ひろゆきの本のおもしろさの話とか、中田敦彦の本のおもしろさの話をしていて、これを聞けばあなたもひろゆきの本読まずにひろゆきについて語れるので、聞いてみてください。
https://twitter.com/1004ki8/status/1667389143129952257?s=46&t=h9SuQ05EzvTkECiLetcnTA
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Rúrí さん、知らなかったけど、アースワーク系の作家なんだな。虹をモチーフにした作品は2つあるっぽいけど、燃やしているやつは、誰も虹を掴むことができない、現象としての性質に関心があるということと、それが抱える文化的な意味の強さ。
https://ruri.is/
今回の件で、興味深くおもったことの一つは、イメージの意味の読み替えで、Rúrí さんの作品は現在の意味でのレインボーフラッグを意味していなかったとおもうけど、それを文脈を変えて別な意味を作りだしている。完全にネガティブな意味に読み替えているし、それを社会で流通する記号として利用している。
この意味の乖離に疑問がでて Rúrí さんの作品をざっとステートメントとか読んでみたけど、そうするとこちらでは、人間がいかにして自然とかかわっているか、虹という記号と虹という現象の関係が問われている。人間が虹を記号として把握する一方で、自然はそこから逃れる。
こういう記号と実在の乖離という関係において作られるメッセージが、環境活動家のアートをターゲットにした活動と構造的に似ているのではないかと感じる。それが、作品そのものの外部でおこなわれていることも含めて。
Rage Against The Machineの1stのジャケットが仏教の攻撃だと読むのかって言っている人いるけど、あれを読みまちがえる人はいない。バンド名(=アルバムタイトル)と写真を合わせて、焼身自殺した僧侶の姿が抵抗の象徴だというのは、見間違えようがない。ここには写真とキャプションの関係が成立している。
今回の場合、そもそもレインボーフラッグ自体が一つの象徴であり、それを燃やすという行為も、象徴への破壊として読むのはある程度一般的である。アルバムジャケットに採用するくらいだから、「レインボーフラッグを燃やす」ことを象徴化していることはわかる。ただ、この象徴化は、キャプションがないため意味が宙吊りされてしまう。
結果的には、本人の言明がキャプションの効果を持ったけど、そのように意味を収斂させていくことは意図していないとおもう。インタビューはあきらかに作品の外部だし。
話してて自分がいかに、中田敦彦の影響を受けていたかがよくわかった。次はひろゆきの影響を受けて帰ってくるわ。それって民主主義への冒涜ですよね?
twitter、ほんとに終わってんな...
https://twitter.com/ElonMuskAOC/status/1668033649567215618
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『えんとつ町のプペル』について真面目に感想を論じてます。基本的にすごくよくできたエンターテイメント。ただし、ある一点、とんでもない「問題」が......。
えんとつ町のプペルの話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/648cd91f13aebe8ea6bbd66f
エマ・ドナヒュー『部屋』でもマスクに対して否定的な言及が出てきてたりするので、しつこいけどやっぱり気になるなあ。たとえば5歳のジャックにドナヒューはこんなことを言わせてる。
”「ぼく、マスク大きらい。マスクを通ったらいきできない。ちゃんとできる、てママは言うけど。[部屋]下[エマ・ドナヒュー]p.72」”
あるいは、その「ママ」と医者とのやりとり。
”「もう風邪ひいて鼻をたらしてるのに、まだマスクしてるなんて、なんかバカみたいじゃないですか?」ママが言う。
「そうですねぇ、ただ、もっと悪いものもうようよしてますからね」
「でも、どっちみち鼻をかむたびにマスクをはずしてるしーー
ドクター・クレイは肩をきゅ、てする。「最終的には、あなたが決めることです」
「ジャック、マスクはおしまいっ!」
「やった〜!」
ぼくたちはマスクをごみばこにすてる。
[部屋]下[エマ・ドナヒュー]pp.103,4”
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ユーザとしてはサーバを「育てる」みたいな意識も持つべきだと私は思いますけどね。そのときだけの、きれいな文言と「誰がまだミスしてないか」だけで「差別への対応」なんてどうにかなるとは自分には思えない。失敗と議論の蓄積に賭けたほうが可能性高いと思うんだけど、そういう発想は取れないんだろうな。
「枯れた」サーバのほうが「差別的言説への対応」という意味でも有効そうなんだよね。「枯れた」って発想、「反差別」の人たちには薄いのかもしれないが......。
もちろんどんな経験をしても学ばない人だっているし、どこに将来性を求めるかは人それぞれだろうけど、オレは継続と経験、失敗と学習のほうを、どうもそれっぽいお題目なんかよりもよっぽど価値を上に置くけどね。
でもほんと壁打ちとして使えていいな。Discordに「壁打ち」ってチャンネルつくってもいいけどな。でも、似たようなとの既にあるしな。
森哲平のYouTube高校、ってコンテンツ企画中。中田敦彦みたいになりたい。第一回はナンシーフレイザーとAホネットの『再分配か承認か?』をわかりやすく10分で説明します。
単純な話、人は、差別だと強い言葉で糾弾されると、差別について理解を深め、今後実行しなくなる確率が高まるんだろうか。
ここらへんどうなんだろうと、この本が気になってるんだけど、いつになったらKindle版が出るのか……。もう紙で買おうかな。無意識のバイアスを克服する: 個人・組織・社会を変えるアプローチ https://amzn.asia/d/4xCJQgT
子どもを叱っても基本学習効果低いと理解されてるのに、「差別するおとな」に同じことして学習効果高いかどうかという疑問が生まれないのはおかしい。
学習効果だけで「どうすべきか」が決まるとも思えないし、相手のレベルにもよると思うけど、そういう視点はとても大事だと思ってる。
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ただ、それがただの博打で「ダメ」への突進だったりもするから判断難しい。自分は最近、とりあえず試せないかって考えること多い。
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これ、この本自体が「君が読んでいる本」になるから、「君のこと理解してない」ということになって、要するに「私はあなたのこと理解してない」になるんだな。
ウーウェンのたまごとトマトの炒めものに対するコメントが真理すぎて否定が無理。
「中国で一番人気の料理。なぜかというと、卵もトマトもおいしいからです。」