短文投稿のSNSだと、思考が単語に結晶化しやすいというか、早く結晶化させないと多くを語れないから、すぐにAは Xだ、Bは Yだと言う。「ミソジニー」だとかなんたらイズムだとか。そうかもしんないし、そうだなと思うこともたくさんあるんだけど、単語連呼しときゃなんか言った感じになる空気が「丁寧に論旨展開をする」という価値観をゴリゴリ削ってる。その「丁寧」が削られたところに生じる問題だってあるはずなのにね。
Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
短文投稿のSNSだと、思考が単語に結晶化しやすいというか、早く結晶化させないと多くを語れないから、すぐにAは Xだ、Bは Yだと言う。「ミソジニー」だとかなんたらイズムだとか。そうかもしんないし、そうだなと思うこともたくさんあるんだけど、単語連呼しときゃなんか言った感じになる空気が「丁寧に論旨展開をする」という価値観をゴリゴリ削ってる。その「丁寧」が削られたところに生じる問題だってあるはずなのにね。
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みんな「差別は構造だから」などと言うくせに、構造的に訴えを無効化したり争点化させたり、本当はそうではないのに極端な二つの立場の対立であるかのように表象されていく構造については反省薄くないかって思ってる。
クソリプの話 - 毎日の特別な風景が年収という名の宝物👀 | standfm https://stand.fm/episodes/6488dd1577d0d1aaa7623e13
なんていうか、愚痴ばかりが出てきそうになるんだけど、愚痴や文句からは何も生まれないな。囚われる。よくないな。
ももしきやさんとスペースします。明日です。めっちゃおもしろい話するので聞いてください。ちなみに4時半からです......。でも、録音あるので、聞くのは何時からでもできます。私が大変なのです.....。
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セーフスペースなんて基本的原理的にはあり得ない。だからこそ、社会全体の公正が大事なんだと思ってる。
サーバなんて出てくも残るも自由だけど、通報や否定がそれだけが差別をなくすと思ってるなら、短絡的に過ぎると私は思ってます。
マストドン全体がそもそも非常に反差別的なポリシーを掲げてるので「それでいい」と思ってる。それ以上にわざわざ反差別をうたうこととかは思いは理解したけれど、現実問題なかなか難しいし、管理人に「神視点」での判断を常時させることになるのでストレスにしかならないと思う。大きいサーバのほうが安定してるしね。
こんな「のんき」なことを自分が言ってるのは、おそらくmastodon.socialだからだと思う。ローカルが基本、英語ばっかなんだよ。英語でも差別的な投稿は残念ながらもちろんあるんだろうけど、そもそもあんまりローカル見にいかないから。
SNSにうんざりした人のDiscordサーバを運営しているので、よろしければどうぞ。ただ、基本、森の独裁です。差別には当然反対ですが「間違えること」の可能性を残した場にしたいと思ってるし、自分も「SNSでは書けない」と思うことを書いてます。差別はダメ。でも、間違えるのが怖くてわからないままになっていくのは反差別から遠のくだけ。そういうポリシーです。興味ある方はDMください。サーバのカラーに合いそうならご案内します。今、アクティブ10人から20人くらいのとこですね。
問題なのはサーバがセーフスペースになっていないことではなく、インターネット全体が間違えたり試したりが安全にできる場になってない、思考ができないことだと思っています。
Discordでは自分は結構間違ったことやいい加減なこと言ってます。他の参加者から批判や指摘がある場合もあるし、ないけれど後から森が「やっぱ違うな」と思うこともあります。我々は完璧からはほど遠いので。でも、すぐに他者を攻撃的に否定するのではなく、また別のコミュニケーションのあり方、その可能性もあっていいのでは?必要なのでは?という発想です。
たとえば、『怪物』という映画。自分はとても素晴らしいと思ったし、表現に今のところ特に問題を感じなかった。むしろ「問題である」という指摘自体が非常に恣意的なものなのではないか?と思っている。もちろん自分の評価は間違ってる可能性大いにあるし、具体的な箇所や構造を指し示しての表現への批判はむしろ非常に読んでみたいと思うのだけれど、こういうこと書いただけで、ものすごい差別者みたいに言われそう、って恐怖がある。恐怖があると「顔色」見ちゃうでしょ。でも、顔色見て発言や行動変えるのって、それは何も理解してないし、良くないことだって思うから。
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でも、こういうのはある程度、人を選んでるからできるのよ。だから選んでる。あんまり考え方が近すぎてもいけない。遠すぎてもいけない。ただ、それでもやっぱり「偏り」はあって、たとえばコロナでマスクしない人とかへのあたりは比較的強かったりするので、そういう考えに合わない人は「発言しにくい」「肩身狭い」と思います。でも、ちょっとテーマがあって「いかにもなリベラルだけにしない」ってのは少し意識してる。
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マジョリティだからとかマイノリティだからとかそういうことではなくて。そういうことが大事ではない、ということでもなくて。でも「言葉が通じない」構造や「必然的に対立へと導かれていく」構造自体が問題だと思っていて、そこには多数の「決めつけ」による過ちも存在する。『怪物』はそんなテーマだったので、今、とても大事な映画だと思ったんですよ。
最近の自分は決めつけがとても多くなってしまった。そのことで悲しくなってるし、すごく反省してるんです。どうせ金持ちの家の子だろうとか、この人はこの程度の認識なんだろうとか。SNSで、その投稿なんかですべてが見えるわけなんてないし、人は様々な属性、顔、現れを持つはずなのに、人生経験も増え、たくさんのことを「知った」せいで「このパターンはこうだな」「だとするとこうだな」の判断が早くなってしまった。忙しくなって時間もなくなり、じっくりゆっくり考える余裕もなくなって。
マジョリティマイノリティという区別は厳然としてあるよ。でも、物事は多面的に見る必要がある。単純化や極端な二項対立や過度な決めつけに陥らないようにやわらかな視点を持つことと、真実や正義まで相対化し切ってしまうことは違う。
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コロナの後遺症なのかもしれない。今年に入ってから、さらに。ガクンと物事や他人に対する興味を失ってしまった。鬱っぽい。