人間が嫌い(最近そればっか言ってるな)
ブチギレた人間自体が排斥されるか、ブチギレさせた人間が排斥されるが、どっちでもいいわ、ブチギレの部分が重要で、全然ロジカルじゃねえ
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ぐぬ管さん、喋っていることはロジカルだけど、そのコミュニケーションのやり方が非常に自分のスタイルを貫徹する感じで相手の事情や背景や文化の事情に一切容赦なく、そのコミュニケーションスタイルで理解されない相手は多いだろうということを感じてしまって、なんというか、苦しい…
正しさに妥協しないのは一種の美徳だとは思うけど、今の社会には大量の正しさが存在していて、全部について矛盾なく正しくいることは難しい。自分としては、見えている正しさだけで突き進むだけでなく、自分に見えていない正しさのことだって想定して慎重に状況を観察して行動するのが賢い振る舞いだとは思っている。けど、そんな賢い振る舞いができる人間なんて、いないんだよね。見えてない正しさを避けることができる人間はいない。そういう点では、「政治から逃げることはできない」というのは正しいんだけど、そのロジックを、自分の見えている正しさを他人に押し付けるために使うのは、自分では他人にとっての正しさを引き受けていない点で、フェアではないと思う。しかし、完全にフェアに振る舞えるほど賢い人間なんていない。フェアでも正しくもないなかで、人間はうまく社会をやっていかなければいけないっていうことだけど、まあ、友達が少ないとか、仲間はずれにされるとか、そんなのは本当に重要な問題なのかっていうと、実際そうでもない気がする。人間の文化も能力も多様だし、どう話したって分かり合えない人間はいる。俺は分かり合えない人間がいること自体は当たり前のことだと思う。ただ、人間同士が分かりあうことによく機能するシステムと、分断することに向かうシステムと、どっちを使いたいかといったら、やっぱり分かり合えた方が少しは嬉しいかもねってぐらい。ただ、そういうシステムは、完全に無加工な人間の思想のぶつけ合いで実現するわけでも、単純なワードフィルターで実現するわけでもない。そこにはトレードオフがある。それで、色々な尺度から自分にとっての正しさを実現する。ということは、他人にとっての正しさを無視することでもある。それでも繋がれないのは寂しいから、違ったポリシーの間で連合しようとする。それは、自分にとっての正しさを部分的に曲げることであるかもしれない。でも、それって、それこそが、コミュニケーションだよね。
まあ本当のコミュニケーションなんてダルいからみんなやりたがらない。コミュニケーションは苦痛だし、脳にとって快楽度の高い情報を選択して消費するほうがいいもんね…
自分はわりと社会性のない人間のことが好きなので、社会性のない人間と付き合いがあると社会性がないと認定されると、困る…
@gnusocialjp まさに、そのアサーティブ・コミュニケーションを正しいと信じて貫徹する部分が、時に理解されない部分なんだろうな、と思います。自分はぐぬ管さんの主張は理性的だと思うし、自分はそういう種類のコミュニケーションをやってもいいんですが、一方で、そういうコミュニケーションの方法自体が苦手な人も多いということを言っているわけです。それはどちらのコミュニケーションの方が優れているとか正しいとか、そういうことではなく、単に文化や多様性の問題だとは思うのですが、自分としては、ぐぬ管さんが正しさを主張するのもわかる一方で、正しさを主張される側の恐怖感も分かってしまい、苦しさを感じるのです。基本的に、人間は自分の間違いを指摘されるのは嫌に感じるものだろうと思います。十分に理性的で、嫌でもそれが正しいと納得すれば行動を直せるとは思いますが、よく知らない人間からよく理解できない理屈で誤りを主張されるのは、基本的には怖いです。ぐぬ管さんは相手を尊重しているとは思いますが、それでも、表現には、怖い部分が残っていると私は感じます。裁判による解決は、理屈としては正しくても、多くの人にとってはそれ自体が怖いです。正確で執拗な記録は、それ自体が怖いです。徹底的な公開性は、怖いです。ぐぬ管さんが信じる正しさそれ自体に、多くの人が怖いと感じるものが含まれているという点の不条理さに、私は苦しさを感じます。もしかしたら、やり方を工夫すれば、そういう種類の「正しさへの恐怖」は本質的なものではなく、回避可能かもしれません。ただ、今のやり方では、うまくいっていないように見えます。
@gnusocialjp 理性を基盤にコミュニケーションをとる人間はマイノリティかもしれないですけど、そういうマイノリティが簡単に繋がれて、孤独にならずに済むインターネットのある時代に生きられて、本当によかった。それは、技術がコミュニケーションに寄与している、誇らしいことだ。そう思います。少なくとも、今、私とぐぬ管さんはこうやってふつうに返信しあっていますしね。