スラドで「カオスラウンジする」って動詞を使っている人がいて、こいつはカオスラウンジをこけにするつもりで使っているんだろうが、こういう動詞を使ってしまっている人がいる時点でカオスラウンジの芸術的価値はむしろ高まるのではないですか?
スラドで「カオスラウンジする」って動詞を使っている人がいて、こいつはカオスラウンジをこけにするつもりで使っているんだろうが、こういう動詞を使ってしまっている人がいる時点でカオスラウンジの芸術的価値はむしろ高まるのではないですか?
動詞にして使っている時点で、もはやカオスラウンジは歴史に刻まれた概念になったということだし、お前らがそれを嫌おうが、歴史的価値は揺るがないと思うが
https://twitter.com/mandel59/status/1199371712493576193
> ぶっちゃけカオス*ラウンジ梅沢和木のコラをちゃんと評論できていたヒトはいるの? 著作権がどうとか、そんな問題意識は、そこにあらわれた表層しか見ていなかったと思う。まあ、ディープラーニング以後の現在、今さら戻ってみるほど価値があるとは思わないが
そもそも、いかにもデジタルネイティブですみたいなふうに生きている、古い著作権の仕組みを持ち込んで乗り込んできた「創作者」側が、技術的には異物だという観点で考える人はいないんだろうか