めちゃくちゃによかった。使われていることばはすべて素朴なのに核心をつくような文章でたまらなかった。
なんらかのみすず書房を読んでいるときに巻末の既刊紹介ページで見て手にした。カナダのノヴァスコシア本も書いている作者と知って、アリステア・マクラウドにどハマリした人間ゆえなんとなく好みそうと思ったのだが完全に好みだった。
1950年代カナダ北マニトバの、2週に1回の郵便と無線くらいしかない村で、家族や家族じゃない人やクリー族(先住民)と過ごす14歳の少年の話。
かといってべつに心温まるみたいな話でもなく、心温まらないわけでもなく、でも恩着せがましくはない、生活をわずかに揺さぶるできごととともに流れていく感じだった。
幻想小説ではべつにないのだが、70年前だとまだちょっとぎりぎり人が人でないものを感じる場面があったのかなと思うところもありよかった。
レコードわからないけどわかる、となったところ。
>ぼくたちが持っている二枚のクラシックのレコード──ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』とストラヴィンスキーの『春の祭典』──と電池バッテリー式のプレーヤーは、ぼろぼろにくたびれていた。二枚だけをあまりにしょっちゅう聴くので、変化をつけるためにあらゆる場所に針を置き、冒頭から流すことはなくなっていた。
これも、ことばはどれもシンプルなのにわかるなあと思った。
>肌が擦りむけていた、ここ数日で空気が変わったからだ──澄んだ、冷たいクイルの空気から、列車内の乾燥してむっとするような空気や、乗客たちのふかす煙草へと。空気が肌を混乱させたなら、通りの人の多さやショーウィンドーの品々が目を混乱させていた。なにもかも取り込もうとした結果がひどい頭痛だった。
クリーのことばではっとしたとこ。部屋に限らずこうなっている。
>ほとんど区別のつかないチューダー様式の家々のところまで来ると、彼はとつぜん立ち止まった。「あの家どもを見ろ」とどこかあざけるように言った。「たっぷりある部屋を、歩き回るんだ。食事は、この部屋。眠るのは、あの部屋。喋るのは、またべつの部屋、だろ?」
作者の端書きが最後に載っていたが、なるほど空気出ていたと思った。ただそれもメランコリックすぎない感じがよかった。
>有益なメランコリーを見いだせないのなら、知性になんの利点があるだろうか、と日本の作家、芥川龍之介は言っている。この言葉で思い出す『ノーザン・ライツ』執筆におけるわたしの試みは、物語のキャラクターたちが呼吸するメランコリックな空気をいかに創り出すか、ということだった
あと巻頭のエピグラフが『草枕』だったのもちょっと驚いた。こんなところで使われることあるんだと思って。
同じ作者の本これからいろいろ読みます。
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