チンデビ応援するために単行本買いました
自由意志についてはこの話も少し似ている。すごいそうそうとなるので好きな文のひとつ
>私は以前から現在にいたるまで、自分の個人的アイデンティティの実感をもったことがありません。私というものは、何かが起きる場所のように私自身には思えますが、「私が」どうするとか「私を」こうするとかいうことはありません。私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。交叉点とはまったく受身の性質のもので、何かがそこに起こるだけです。(クロード・レヴィ=ストロース『神話と意味』)
ショシャナ・ズボフ『監視資本主義』で、自由と尊厳なんかを讃えているから発達を妨げるんだぞと唱えていた人(=スキナー)がいたという話があり、おもしろそうだったので読んだ。行動科学の開祖と言われているだけあってキレキレだった。自由意志なんてものは無いぞみんな条件の組合せでできたものだぞ、てのはわりと同意する。(だからコントロールすべきってのはまた次の話だけど)
本旨ではないがおもしろかったところたち↓
この表現よかった。
>ギリシャ時代の物理学や生物学は、いまや歴史的な関心の対象でしかない(現代物理学者や生物学者で、アリストテレスに助けを求めるような人はいない)が、プラトンの各種の対話はいまだに学生の課題図書とされ、参考文献に挙げられて、なにやら人間行動に光を当てるものとされている。アリストテレスは現代の物理学や生物学の本を見ても一ページもわからないだろうが、ソクラテスやそのお仲間は人文問題の最新の話題にも、何の苦もなくついてこられるだろう。
これも
>人を月に送るのは、本当に公立学校の教育を改善するよりも簡単だったのだろうか?
キレッキレ
>親や教師はしばしば、承認や愛情のふりをすることで行動問題を解決しようとするが、これは偽札と同じだ。お世辞や仲間ぼめといった、多くの「友だちを勝ち取る」手法もそうだ。
そうですってなった
>ラ・ロシュフーコーが述べたように「誰であれ、邪悪になるだけの人格的強さがないのであれば、その善良さについて讃えられるには値しない。それ以外の善良さというのは、通常は単なる怠惰や意志の不能でしかないのだ」。
AIに怒る人は、「今まで褒められたであろうことが褒められなくなる」からか、と思った部分。実際そんな気はする。
>科学進歩の性質として、環境の役割の理解が深まるにつれ、自律的な内なる人の機能は一つ一つ奪われる。科学的な概念が非人間的に思えるのは、いずれ自律的な内なる人に残された役割は何一つなくなってしまうからだ。そして驚嘆という意味での感心について言うと、人々が感心する行動というのは、まだ説明がつかない行動だ。科学は当然のように、そうした行動についてもっと完全な説明を探し出す。その目標は謎の破壊なのだ。尊厳の守護者たちは抗議するだろうが、そうすることで彼らが遅らせているのは、伝統的な用語で言うなら人が最大の賞賛を受け、最も感心されるであろう成果そのものなのだ。
そんで最終的には何をしても褒められないので、「生きてるだけで偉い」が流行っちゃうのかーとなった。私は「生きてるだけで偉い」系のことばがあまり好きではないのだが(偉くなくても生きていてよい、もしくは全員等しくクソなので生きていてよし、のほうがまだしっくりくる)、何も残されない人間の最後の砦なわけか…。
だから八百屋お七って清々しいんだよなと思った部分。減刑可能な15歳以下ということにしてくれようとしたお奉行様をつっぱねて16でございますって言うお七が私はめちゃくちゃ好きなのである。
>科学的な分析で行動が外的な条件によるものだと示し、自分の栄誉を減らして賞賛される機会が奪われると人々は文句を言うが、同じ分析により自分たちが罪を逃れられるときにはほとんど文句を言わない。(中略)アル中は真っ先に、自分は病気なのだと主張するし、若年非行者は真っ先に、自分は不幸な出自の被害者なのだと主張するだろう。自分に責任がなければ処罰は公正だとはいえない。
8章辺りから、そうだけど…みたいな感じになってくる。ムスカが言ってそう。
>現代の人々に好かれる世界は、現状を永続化させようとする。それが好かれるのは、人々がそれを気に入るよう教わってきたからだ(中略)もっとよい世界は、そこに暮らす人々に好かれるだろう。それは最も強化的なのは何か、あるいは何であり得るかを考慮してデザインされているからだ。
究極的には罰を使わず人の行動をコントロールして社会を運営できるという流れの話になっていく。ただ訳者あとがきにあったけれど、この本に触発された集団が1960年代にいくつか立ち上がったものの、いまいち「よりよい社会」作りは成功しておらず、成功した例はカリスマ指導者+カルト集団の色合いが強いものばかりらしい。難しいね。
その後盛り上がった行動科学は、実験を読んでいる分にはおもしろいが、市井での使われかたは広告誘導でしかなかったりするのが、単に胡散臭いものを見分ける労力が生まれてしまっているよなとも感じる。自由意思とか考えずに流されなさいよというのもひとつではあるが、Google等の中の人が定義する「よい」にも別に信頼置けないしという課題が残るんだよな。「よい」の定義自体がそもそも時代や文化に依存するから、その時よくても黒歴史化するかもしれんし。これ系の話はいつも「地獄への道は善意で舗装されている」を思い出してしまう。
個人的にはコントロールに任せすぎると物語が味気なくなるから嫌だなというのもある。歴史上の人物だって遺伝的条件や環境による結果の行動だったこと自体は別にそうかなと思うけど、マザーみたいな存在がコントロールするなら個体が名前を持つことはあんまり意味がなくてかつ言われてやりましただと「そうすか」にしかならなくなり物語が死ぬので、物語が好きな人間には悲しいのである。
じゃあこの本はマッドサイエンティストの戯言なのかというとそうでもなくて、条件付けにより行動を変える手法はいろいろと使われているので、偉大な人ではあるのだった。
研磨剤入っているピカッと輝くシートを愛用していたのだが製造終了していた。後継はマジックリンEXPOWERシートが近そうかな
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