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ただし、漫画のキャラクターにマスクをつけさせると、不可避的に顔が遮蔽されてしまうという問題がある。
 『魚と水』では、普段は着けていないが、ところどころマスクを取り出して着用する場面を描くという形で解決している。『ポストキッズ』は割り切ってSFメット方式。『旅に出るのは僕じゃない』は、耳紐と輪郭だけでマスクを示唆し、キャラクターの口元はそのまま描いている。いわば透明マスクのような描き方。これはこれであり。

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コロナ感染症を取り入れている漫画(または目下のパンデミックに影響されたとおぼしき漫画)もいろいろある。いくつか紹介してみると:
 1) 田亀源五郎『魚と水』(単刊)は日常もの。マスク配慮などの描写がキャラクター間の関係描写としても活用されている。ストレートな日常=パンデミックもの。
 2) 宇河弘樹『ポストキッズ』(既刊2巻)は、架空のパンデミック社会で、感染を防ぐために引き籠もっている人々のために、郵便配達をして回る「ポストキッズ」たちが主人公。少年漫画風のコミカルさとSF的状況の晦渋さが宇河氏らしい。
 3) いけだたかし『旅に出るのは僕じゃない』(既刊1巻)。パンデミック下で海外渡航が困難な近未来世界。人々のために代理旅行をする旅行者が主人公(※体験の記憶をヴァーチャルで販売する職業)。情緒とロマンと苦みがあって、読み応えがある。軌道エレベータも登場。

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自宅では、PC(デジタル機器)へのダメージが怖いので、PCを動かしているときは27-28度を保つようにしている。
 ちなみに、強い冷房は苦手なので、体調を崩さないように程々の温度設定にしている。就寝時も扇風機のみだが、寝苦しさとかも無いし、これが私にとっては最適解のようだ。もちろん水分は十分摂っている。

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酷暑の太陽光線を浴びるのは、実を言うと、けっこう好き。
 帰宅時などに、玄関口で午後の日差しに背中を向けてしばし焼かれるのは、ピリピリした刺激があって気持ち良い。汗は、すぐに入浴して洗い流せばすっきりするし。
 もちろん、非常に危険な行為なので、めったにしないけど。

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あちらに最後まで残るのは、「そこで長く活動しすぎた人たち」なのだろう。
 言い換えれば、特定のプラットフォームに対して、あまりにも多くのもの――ライフログからパーソナルな繋がりから情報収集リストまで――を預けすぎてしまった人たちだ。特定のプラットフォームに、個人的な価値のあるものを預けすぎるのは、きわめてリスキーなことだ。そのことを、私(たち)はここ十数年忘れていたが、改めてその危険性を意識させられている。
 とはいえ、最初にも書いたように、「あまりにも多くのものを預けすぎて、離脱できないから」とそこに留まり続けるのは、今後さらに多くのものを預け続けていくことであり、最終的な損害をさらに増大させることになりうる。……もっとも、それをサンクコストと割り切って断念するのは、やっぱり難しいことではあるけれどね。

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そして、クリエイターや研究者などの個人(情報発信者)たちが、それに続くだろう。プラットフォームの専断横暴に振り回される(例えば恣意的にバンされる)のは、クリエイターたちにとっては死活問題だ。だから、ある程度有望な代替的存在が出てきたら、彼等は危険なSNSから急速に離脱していく可能性がある。彼等にとっては、メディア規模の大きさだけでなく、情報蓄積の確実性や連絡先確保の安定性もまた、きわめて重要な関心事項だ。
 さらに公的機関も、その性質上、より安全なプラットフォームを選好するだろう。差別発言が横行していたり、あるいはログインしなければろくに情報を見られなかったりするようなメディア(※今のtwitterはそうなっている)は、そうした公共的プラットフォームとしては失格だから、そこからの離脱のインセンティヴは、公的機関のアカウントについては、比較的強く働くだろう。(続)

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あっちからの離脱も、わりとスムーズに進んでいくんじゃないかなあ。
 まずは企業広報系のアカウントが、新たなソーシャルメディアに積極的に進出していくだろう。なにしろそれが広報の仕事だから(※実際、現在のThreadsは企業アカウントだらけっぽい)。
 そして彼等は、代替的なSNS上でも、様々な情報を提供したり、あるいは特別なサーヴィスを提供したりするようになる。他のSNSとの並行展開でも構わない。一般ユーザーとしては、「どのSNSを使っても情報を入手できる」ということになるからだ。
 そういう状況下では、これまでのような独占状況は容易に崩れていく。ソーシャルメディアの武器は、結局のところ「ユーザーたちが自発的に提供した大量の情報がそこにある」ということに存するわけで、言い換えれば、「ユーザーの減ったSNS」「まっとうな情報や楽しいコンテンツを入手できないSNS」は、どんなに優れた機能を持っていても、役立たずだ。(続)

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あっちの騒動は、もはや対岸の火事だから気楽に眺めていられるなあ。あちらに留まっている当事者たちは可哀想だけど。
 あるソーシャルメディアが明らかに悲惨な状況になっているというのに、そこに留まって活動し続ける(=投稿したり交流したりする)というのは、「沈みゆく船に、大事な荷物を積み込んでいく」のとほぼ同義だろう。言い換えれば、駄目だと思ったプラットフォームからは、できるだけ早く離脱する、それこそがダメージを最小化する。

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なんかすごいネタが来たな……。米国のVtuberさんが、AIで自分自身をシミュレートさせて(※アバターもコピーだし、音声も自分自身の声色で喋る)、それと会話している……。技術的-演出的にも新奇性があってたいへん興味深いが、私だったらドッペルゲンガー恐怖とかアイデンティティ崩壊で恐慌を来してしまいそうだ。大丈夫なのだろうか(笑)。
Nyatasha Nyanners : "collabing with an AI clone of myself please help me" (7月10日)
twitch.tv/videos/1867781889

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なんとなくこんな感じ。
しかし、500字って、あんがい簡単に埋まってしまうんだね……。

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「素晴らしい国に生まれた」のは嬉しいことだ。しかし、素晴らしい国も、素晴らしい歴史も、所詮は他人が作り上げたものであり、私(たち)はそれらをたまたま享受できているに過ぎない。レガシーってのはそういうものだ。過去の【他人たちが】作り上げた自国の歴史について【私自身が】誇りを持てるという意識構造というのは、よく分からない。いや、共同体的帰属意識や集団的同一化の一種として分からないではないが、なんだかいろいろとねじれているように思う。そういうのを人類の意識から完全に排除することはできないにしても、そういうのに頼り切りというのはずいぶん怖い。

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そういう意味で、「日本を貶めようとする他国」云々という主張は、それ自体、誤った認識――例えば排外主義――に基づいているのではないかという疑念が拭えない。
 そもそも、いずれの国も、どこの文化も、「完全無欠で一切欠点の無い理想的な状態」などではあり得ない。国や法制度や政治は、その都度改良していかなければいけないし、そのためには現状の良くないところを直視するプロセスも持たなければ、物事は良くならない。それは「貶める」のとはまったく別の、ポジティヴな営みだ。
 しかし、自分自身の拠って立つ価値を「素晴らしい国」の側へ預けてしまうと、そういった改良の視点を持つことが非常に難しくなる。自分で自分の価値を否定するかのような形になってしまうからだ。だから、あんまりそういう方向に進みすぎない方がよい。(続)

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実のところ、「日本を貶めようとする他国」というのは……むしろ2020年代の現在は、日本に対するそういう圧力がきわめて緩くなっていると言えるのではなかろうか。
 例えば、昔のような日本人差別はかなり弱まっているだろうし、他国から日本を標的にした政治的-社会的な圧力というのも、昔の方がシビアだったよね(※現在は現在で、某カルト協会のような深刻な介入があるとはいえ)。「日本を貶めようとする他国」といって、うーん、具体的にどういう事態を念頭に置いているのか分からない。
 昨今でも諸外国から批判が向けられることはあるが、それらは、性的少数者に対するフェアな法制度が、たとえばG7各国の水準から明らかに立ち遅れているがゆえの批判だったり、あるいはアイドル会社を中心とする組織的な性的虐待が隠然/公然と長年続いていたという、擁護しがたい事態に対する厳しい目であったり、あるいは――デリケートな問題だが――セクシャルな表現の許容度に関して、現代の国際的基準と日本の現状との間に軋轢が生じているというものであったりする。それらはけっして、日本を狙い撃ちにすることを目的にした批判ではない。(続)

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まず、ナショナルアイデンティティや地域的/共同体的/文化的な帰属意識を持つことは、人類社会に広く見られるもので、それ自体を否定しきるのは説得力を持ちにくいだろう(※私自身は、そういった意識はきわめて薄い方だが)。例えば故郷への愛着とか、戦時のパトリオティズムとか、独立運動時のナショナリズムとか、まあ、一定の効用はあるだろう。国家のような大きな存在と一体化する心地良さというものもあるだろう(対象が「国家」でなくてとも、例えばスポーツで応援するチームと一体化するのも同じ作用によるものだ)。
 ただし、パトリオティズムやナショナリズムの一本槍で突っ走ることの危険性も意識されねばならない。それらは、敵-味方(内輪-外部)を二分する排外主義に接近しやすいし、マジョリティに追従する社会的抑圧をもたらしやすく、さらには政治的な国家主義(翼賛志向)や、文化的な夜郎自大になりかねないという意味で。そういうのは、とても怖いものだ。(続)

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こちらにも回ってきた、日本は「素晴らしい国」なのに云々という主張について。
結論から言えば、一面的なナショナリズムと排外主義的な被害者意識がミックスされた深刻な誤りだと思うけれど、あれはあれで素朴な――悪い意味で素朴な――主張として、ベタに受け入れてしまう人もいるようだし、ああいう意見に対して大上段に非難したり嘲笑したりするのでは、おそらく事態の解決にはならないと思う。なんとかうまく解きほぐしていけたらいいよね……。(続)

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京都みなみ会館は、『ナコイカッツィ』とかを観に行ったなあ。
近隣の九条通も、やけに見晴らしが良くてよく分からない低層ビルばかりがぽこぽこ並んでいるのがなんとも不思議な景観に思えて、自転車で走るたびになんだか訳も分からずドキドキしていた。住宅街でもなく、商業地区でもなく、幹線道路沿いにしてはローカルな落ち着きがあり、それでいて京都の中心街からもわりと近いという……。

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「趣味とソーシャルメディア」については、模型界隈はかなり好ましい状況にある。模型(完成写真)を投稿できるサーヴィスがいくつも存在して、そのいずれかにアカウントを作って作品写真や途中経過写真を投稿していけば、同好の士から好ましいリアクションを受けられる。もちろん、他人の制作写真を見て回り、自分にとって参考になる作品にブックマークを付けたり、コメント交流したりすることもできる。そして、気の合う相手(ジャンルや美意識の近い同好の士)を見つけることもできるだろう。
 難しくなったのは、「みんなで同時に盛り上がる」ものだろう(例えばアニメの感想とかスポーツの実況感想とか)。もっとも、そういうのは「つながっている特定の誰か」が相手でなくてもいいわけで、どこかそれなりに人の集まっているメディアに行けば、大抵は満足できるのではなかろうか。YTやtwitchのような動画配信メディアもすでに存在するし(デジタルゲームのプレイイングなどもそこでシェアされている)。

TAMIYAのプラモデル「1/700 プリンス・オブ・ウェールズ」。
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特定のソーシャルメディアの一極支配には、それはそれで大きなメリットがあったのは確かだ。情報発信(たとえば宣伝)にとっても、そして、情報探索(例えば同好の士を見つけたりする検索)の側でも。あれが失われたのは、うーん、確かに痛い。特にmstdnは、検索性能を意図的に低めているので、新たな同好の士を見つけたり、関心のあるトピックへの言及を探したりするのがかなり難しい。しかしそれでも、一般的なweb検索がゴミ/デマ/詐欺まみれでほぼ機能停止している中では、ソーシャルメディア単位に切り分けられてその枠内で絞り込んでいくのは、一定の合理性がある。
 例えばmstdnでは、特定の趣味分野を謳っているサーバーが存在することで、同好の士を見つけやすくなっている(ただし、連絡先の確保という観点ではいささか弱いかもしれない)。その一方で、例えばFBのように個人の永続的な連絡先確保という観点で有力なソーシャルメディアもある(ただし、趣味のコミュニケーションや発言の自由さという観点では、制約を感じるかもしれない)。
 まあ、なんとか上手くやっていきたいよね。

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しかし、使い分けといってもなかなか見通しがつかない。メールアカウントの使い分けのように、「仕事向け」「趣味用」「公共的発言」「まったくのプライヴェート(閲覧目的)」などになるのだろうか。ソーシャルメディアそれぞれの特性を見極めて、社会的交流を強く促してくるようなメディアでは、表向きの発言やディーセントな交流を意識するとか、あるいは、ユーザーの匿名性(プライヴァシー)を大事にしてくれるようなメディアや、複数のアカウントを併用できるようなメディア、はたまた差別発言などの攻撃的リアクションを受けるリスクの高いメディアや、企業アカウントの多いメディア、等々。現時点でもそういった違いはかなり見て取りやすいが、それを踏まえてうまく立ち回るのが現代人のメディア生活のスキル、ということになるのかなあ。

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「特定の(単一の)ソーシャルメディアが全てを包含していて、そこを見るだけで十分」というのは理想的だったかもしれないが、それは怠惰でもあるし、一極支配のリスクもきわめて高い(その一つが崩壊したら、全てを一気に失ってしまうことになる)。理想的な単一のオンラインメディアへの安住などという夢を目指すことは、もはや出来ない(目指すべきではない)。これが、この8ヵ月の教訓かなあ。
 今後のオンライン世界は、複数の(ソーシャル)メディアが併存し、それらがいくらかオーバーラップしつつ、我々ユーザーはそれらを併用していくことになるだろう(そうするのが安全だろう)。そして、各メディアの違いを把握して自律的能動的に使い分けるスキルが必要になり、多元的多層的なオンライン世界群を渡り歩いて情報探索するスキルが、あらためて重要になってくるのだろう。多少手間は増えるが、その方が安全で健全だ。少なくとも、差別主義者のCEOに首根っこを掴まれたままでいるよりは。