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なんとなくこんな感じ。
しかし、500字って、あんがい簡単に埋まってしまうんだね……。

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「素晴らしい国に生まれた」のは嬉しいことだ。しかし、素晴らしい国も、素晴らしい歴史も、所詮は他人が作り上げたものであり、私(たち)はそれらをたまたま享受できているに過ぎない。レガシーってのはそういうものだ。過去の【他人たちが】作り上げた自国の歴史について【私自身が】誇りを持てるという意識構造というのは、よく分からない。いや、共同体的帰属意識や集団的同一化の一種として分からないではないが、なんだかいろいろとねじれているように思う。そういうのを人類の意識から完全に排除することはできないにしても、そういうのに頼り切りというのはずいぶん怖い。

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そういう意味で、「日本を貶めようとする他国」云々という主張は、それ自体、誤った認識――例えば排外主義――に基づいているのではないかという疑念が拭えない。
 そもそも、いずれの国も、どこの文化も、「完全無欠で一切欠点の無い理想的な状態」などではあり得ない。国や法制度や政治は、その都度改良していかなければいけないし、そのためには現状の良くないところを直視するプロセスも持たなければ、物事は良くならない。それは「貶める」のとはまったく別の、ポジティヴな営みだ。
 しかし、自分自身の拠って立つ価値を「素晴らしい国」の側へ預けてしまうと、そういった改良の視点を持つことが非常に難しくなる。自分で自分の価値を否定するかのような形になってしまうからだ。だから、あんまりそういう方向に進みすぎない方がよい。(続)

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実のところ、「日本を貶めようとする他国」というのは……むしろ2020年代の現在は、日本に対するそういう圧力がきわめて緩くなっていると言えるのではなかろうか。
 例えば、昔のような日本人差別はかなり弱まっているだろうし、他国から日本を標的にした政治的-社会的な圧力というのも、昔の方がシビアだったよね(※現在は現在で、某カルト協会のような深刻な介入があるとはいえ)。「日本を貶めようとする他国」といって、うーん、具体的にどういう事態を念頭に置いているのか分からない。
 昨今でも諸外国から批判が向けられることはあるが、それらは、性的少数者に対するフェアな法制度が、たとえばG7各国の水準から明らかに立ち遅れているがゆえの批判だったり、あるいはアイドル会社を中心とする組織的な性的虐待が隠然/公然と長年続いていたという、擁護しがたい事態に対する厳しい目であったり、あるいは――デリケートな問題だが――セクシャルな表現の許容度に関して、現代の国際的基準と日本の現状との間に軋轢が生じているというものであったりする。それらはけっして、日本を狙い撃ちにすることを目的にした批判ではない。(続)

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まず、ナショナルアイデンティティや地域的/共同体的/文化的な帰属意識を持つことは、人類社会に広く見られるもので、それ自体を否定しきるのは説得力を持ちにくいだろう(※私自身は、そういった意識はきわめて薄い方だが)。例えば故郷への愛着とか、戦時のパトリオティズムとか、独立運動時のナショナリズムとか、まあ、一定の効用はあるだろう。国家のような大きな存在と一体化する心地良さというものもあるだろう(対象が「国家」でなくてとも、例えばスポーツで応援するチームと一体化するのも同じ作用によるものだ)。
 ただし、パトリオティズムやナショナリズムの一本槍で突っ走ることの危険性も意識されねばならない。それらは、敵-味方(内輪-外部)を二分する排外主義に接近しやすいし、マジョリティに追従する社会的抑圧をもたらしやすく、さらには政治的な国家主義(翼賛志向)や、文化的な夜郎自大になりかねないという意味で。そういうのは、とても怖いものだ。(続)

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こちらにも回ってきた、日本は「素晴らしい国」なのに云々という主張について。
結論から言えば、一面的なナショナリズムと排外主義的な被害者意識がミックスされた深刻な誤りだと思うけれど、あれはあれで素朴な――悪い意味で素朴な――主張として、ベタに受け入れてしまう人もいるようだし、ああいう意見に対して大上段に非難したり嘲笑したりするのでは、おそらく事態の解決にはならないと思う。なんとかうまく解きほぐしていけたらいいよね……。(続)