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私が思うに、「語り継ぐ」のではなく、当時の記憶の生々しさを保ったまま「書き留める」ことがまず第一であり、そしてそれから経験がどのように自己存在に影響を与えたのかと「自省する」ことが第二であり、さらにそれから「私は何者であるのか」を伝えなければならないという欲求、そしてそれを心から知りたいという関係性が生まれて、「語り」が生まれるのではないか。
「語り継ぎ」というのは理不尽であり、語り継ぐ人々の欲望や誤解により歪められ、最終的には物語の乗り物としての抜け殻になる。それはそれで価値があることではあるが、それはあくまで「語る人」「語られる人」の存在論的な価値であり、個人的なものである。端的に言うと、「語り」は自己中心的な経験の解釈であり、「語り継ぎ」は自己中心性の引継ぎである。それがゆえに、引き継いだ人々により跡形もなく歪められるが、それは人が生きるということである。
もし震災の教訓を後世に伝えたいのならば、「語り継ぎ」といった感情的な方法ではなく、できるだけ多くの事例を集積研究し、自然科学・人文科学の両面から批判を加える開かれたコミュニティを形づくり、理知的な議論を防災教育により広めるべきである。研究や教育には属人的な「真実を探求し、理性的で責任ある人間像の伝達」という側面があるが、「私は何者であるのか」という問いが背景化し、抽象的な答えが間接的に伝えられているという点で、個別具体的な実存的テーマが直接的に話題の中心になる「語り継ぎ」とはかなり区別される。
私が例えばここでドロドロとした人生上の経験、あるいは鬱屈とした無内容な人生経験の欠如を語ったとして、それを「語り継ごう」などとは誰も思わない。ただ、そういった内容を見聞きしたことが自己の在り方に影響を与えてしまい、自分の経験の一部として語らざるを得なくなったとき、あるいは突出して印象深い出来事となってしまった場合、結果として語り継がれることになる。
モデレーターとして、あんまりにも内容の無い投稿はパブリックで出さない方がいいよとは伝えることがあるが、逆にこの内容はパブリックで出しても面白いから出しなさいとは言えないのは困る