Fediverseの良いところはざっくり言うと「サーバーがいっぱいあること」なんだけど、もっと言うと「Mastodon、Misskey、Pleromaなど、開発者もコミュニティも異なるAP対応ソフトウェアがいっぱいある」「同じソフトウェアだけでなく異なるソフトウェア間でもある程度やり取りができる」「誰か一人だけが手間や資金などのコストを負う必要無く運用できる」といった点でも分散化されてるのよね
Fediverseの良いところはざっくり言うと「サーバーがいっぱいあること」なんだけど、もっと言うと「Mastodon、Misskey、Pleromaなど、開発者もコミュニティも異なるAP対応ソフトウェアがいっぱいある」「同じソフトウェアだけでなく異なるソフトウェア間でもある程度やり取りができる」「誰か一人だけが手間や資金などのコストを負う必要無く運用できる」といった点でも分散化されてるのよね
"パリサーはフィルターバブルの概念を、「(検索エンジンの)アルゴリズムによりもたらされる、情報の個人的生態系」と定義している。(略)パリサーの憂慮は、「ホテル・カリフォルニア効果」として2010年にティム・バーナーズ=リーがガーディアン紙で示した憂慮にやや似ている。これは、インターネットのソーシャル・ネットワークのサイトが(インターネット利用者のシェアを拡大する目論見で)他の競合するサイトを遮断しているので、特定のインターネット・サイトに「入れば入るほどにその情報から脱出できなくなる」ことに関連して述べたものだった。こうした運営はワールドワイドウェブをばらばらに分断するリスクを孕む「コンテンツの閉じたサイロ」になるという。"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB
"We are programmed to receive. You can checkout any time you like, but you can never leave!
(我々は客を受け入れるように仕向けられているんだ。好きなときにチェックアウトはできるが、決して立ち去ることはできないんだ!)"
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%A2_(%E6%9B%B2)
好きなときにチェックアウトできるってむずかしいよね。どうでもいいことだけつぶやいてればいつやめてもいいのかもしれないけど、それにも日記みたいな捨てづらさある。
実際にチェックアウトしてしまえばどうでもよくなるんだけど。「twitterに代替はない」というのは、機能とかスケールとかできあがったソーシャルグラフの問題とかなんじゃなくて、「代替はない」とおもわせることじたいがプラットフォームの戦略なので、忘れてしまえばいいだけ。
ActivityPubを喋れるwikiみたいなものって作れないのかな。適切なUIはわからないけど。
ActivityPubはタイムライン以外のUIができればもっと別な可能性ひらけるんじゃないかな。全文検索とかにこだわらなくてもよくなるかもしれないし。
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例によってちょっと昔話をしますが、
パソコン通信と草の根BBSから急激にインターネットに移行した頃、コミュニティが消えてしまったことがあるんですよ。
World Wide Webってんで、個人でホームページを持って、世界と繋がれるっていうことで、皆で個人ページを作った。
お一人様に分散している状況に似ています。
(どこが同じで、どこが違うか、掘りさげると意味がでてきます)
つながりがなかったんで、相互リンクページを作った。フォローとフォロワーみたいなもんで、フォロー先を辿って、新しいページを見つけたわけです。
あと、CGIで掲示板を作った。個人ページのミニコミュニティです。
そのうち、Yahoo!などのディレクトリ登録して検索できるサービスが出てきた。ジャンルとページ名とURL、キーワードと説明のようなものが人力でまとめられていきました。
端折る。googleなどのクロール型の検索エンジンが出てきました。
登録するとランダムでリンク先に飛ぶのもありました。リング。ちょっと違うけどリレーに近いかな。
で、mixiのようなコミュニティが再登場します。
パソコン通信からmixiまでの空白の時間は、今の状況を考える時に、大いに参考になっています。
パソコン通信は、大手と、草の根BBS(個人運営の小規模局)にわかれます。
大手BBSは、端的に言うと、いまあるものはほとんど何でもありました。
草の根BBSは、基本的にホスト局の外と繋がる方法がなかったので、LTL中心のサーバみたいなものでした。当時の通信につかわれていた電話+モデムでの接続は距離と時間で料金が決まるため、物理距離の問題があり、近隣地域だけで人が集まっていました。地域サーバですね。
そうしたものが一回なくなって、インターネットに移行したら、不便すぎて、人々は繋がる方法を探したり、同じ場所に登録することを好んで、(中略)mixiとかtwitterとかそういうのが大流行したというワケです。
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「美術史かじってれば生成AIのやることなんて過去あった写真からの写実主義の衰退とほんと同じなのはすぐわかる」というの見たけど、この解像度の理解がいちばん好きじゃないんだよなぁ。「写実主義」がなにを指しているのか不明だし。「写真の登場」と「写実主義の衰退」が因果関係で結ばれるというのは問題を単純化しすぎていて、そんなことないやろっていくらでも言えてしまう。印象派は写実主義じゃないのか、とか、ジェロームという画家が印象派と同世代にいまして、とか。
発言主が「写実主義」だと思っているのは、実際にはアカデミズムのことだとおもうんだけど、フランスアカデミズムの後退と写真の登場とのあいだに因果関係があるとしたら、肖像画制作の需要の後退だろうけど、この場合でも市場の変化こそがキーになっているわけで、発言主が考えるほど単純ではない。
まあ、この発言主の発言の背後にあるのはあきらかに技術進歩史観で、歴史の天使を吹きとばしている暴風とおなじものですよね。こういう解像度の歴史理解が、「技術の進歩」という神話を支えている。
ああ、ていうか生成AIとイラストの関係を「理解」しようとするのに、過去の写真と絵画の関係を引き合いに出してしまうのは、マクルーハンが言うバックミラー効果の変則的な事例だな。
『〈身売り〉の日本史』も、現代の国際化した身分制度に言及していて、日本が現代においても人身売買に厳しくないということを書いていた。貧困国からほとんど奴隷化した状態で連れてこられる人をそのまま受け容れている。外国人の技能実習者問題とか、入管法問題とか、このあたりが全部つながっているのだと、すこしわかってきた。
経済格差は奴隷制度をつくりだしていて、それが江戸期の吉原などの管理売春問題であり、この問題は別な場所につけかえられただけであって、なくなっていない。売買春だけを問題視するとこの構造的問題を見失う。記事を読んで、それと類似の問題だと思った。
redditにたまにアラン・ケイが降臨してたけど、まだ投稿してるのかな。Clojureのリッチ・ヒッキーとケンカしてたのがめっちゃおもしろかった。
ピアノによって音楽が配布されるようになった(メディア化)の話おもしろい
時期的に日本では美術全集とか出始めたころなのかな?
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プログラミング言語も機械と人間の間を取り持つインターフェースだけど、人間がなにか認知できる形にする必要がある
デザインにおける脱植民地化、日本だとほぼまったく議論されていない。ドナルド・ノーマンとかまだ大人気だし。
生成プログラミングとか生成デザイン、パターンランゲージ、エンドユーザーコンピューティングあたりの話と重なりそうで興味深い話だった
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演奏者がいないのに、仮想空間のなかで音楽という立体物が屹立しているみたいなのが最近気になっていた。響きが空間を伝わるより、客体化された立体物みたいなイメージ強い。
コンピュータ以降の複製、近代の複製と違うと思うんですよね。それがやはり「版」のような原複製装置があるのと、分散的な複製が基盤になることの違いとしてあるんじゃないかというのを考えているけど、まだまとまらない。
ボードリヤール、アラン・ケイらのシミュレーション的な思想と突き合わせて読み直さないとなとは思ってたけど、まだあれだ
プログラミングがハードル高いかどうかって、それこそテクノクラート的な権力維持装置のために難解にしてきた結果なんだよなと思ってたら言われた
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今日もデジタル人文学の話でたけど、日本であんまり文脈化されていないのも理系文系の謎区別のせいな気がするな
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技術の輸出というものが、一般的に植民地主義的な側面を伴うとおもっている。
技術が輸出されるためには、輸出する国と輸入する国で技術格差が存在する必要があるけど、この「格差」が評価されるためには、ある技術はより進んでおり、他の技術は後れているという進歩主義的な図式が必要になるので、まず輸出されるのは技術そのものではなく技術の物語だとおもう。ある技術が優れているという物語が信じられなければならない。
多くの技術は、その地域特有の環境のなかで生じるとおもうけど、技術が輸出可能になるためには環境への依存が切り離されている必要がある。そうして環境との相互作用が無視された技術が一般化するようになるし、人間もその技術的環境に適応するために一般的な人間になる必要がでてくる。
打ち上げあったらしいのついていきたかったな。友人の展示が時間ギリギリだったので抜けてしまったけど。
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そういえば今日ピアノの自動演奏が電子音楽みたいに聞こえるみたいな話聞いて、ホロヴィッツの演奏について分析した記事がおもしろかったの思い出した。
この記事の書き手は、ホロヴィッツは「どうしても3本の手で演奏しているように聞こえる」んだけど、それにはホロヴィッツの企んだトリックがあり、という記事。これ読んだとき、音楽という構造物を見るように聞くのではなく、ちゃんとした聞き手は演奏者の身体を想起して聞いているんだとおもった(自分にはそもそもホロヴィッツの演奏から「腕が三本ある!」までいかない)。機械に演奏させるとき、たぶんこの「内面化された他人の身体」のあるなしというのは、聴くという経験にとってけっこう重要なんだろうなとおもった。
https://cremona-luke.com/20220804music/
この記事読んだときの感想
自分が聴いたくらいでは「ピアノだけど複雑な響きしているなぁ」くらいの雑な印象しかもてないけど、記事の書き手は「どうしても3本の手で演奏しているように聞こえる」と書いている。「これ演奏できなそうだな」というのが、脳内で音楽のモデルみたいなものが構築できないとかそういうことなんじゃなくて、脳内に音楽のモデルはできているんだけど、それを身体動作に変換したときにどうやっても実現できなさがあっておかしい、みたいなのが「3本の手で演奏している」という感想なんだろうなという気がする。 https://mstdn.jp/@tenjuu99/109710866382694911
この記事の書き手が「でも、この演奏はホロビッツの強い意志により楽譜にはなっていない。(最近はAIによって解析された演奏不可能な楽譜が出たみたいで、見てみたけど失笑するしかなかった)」と書いているのもおもしろい。
これ、AIは音楽というオブジェクトをモデル化することはできても、それがどのような身体動作によって作られるかということまで考えていないんですよね、たぶん。今日の話ではないけど、譜面が人間の身体動作にたいして与えられる指示であるのに対して、コンピュータ上でおこなわれる「音」はすでに身体動作を伴わないから、機械は譜面を直接音に変換してしまう(音を直接譜面に変換してしまう)。それが「失笑するしかなかった」理由なんだろう。