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Your majesty, beloved, well-self-censored account is here! It's a time to say Goodbye to all Stupid residents of this Normative Society. It must be nice to disappear to live a life of my own.
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キングクリムゾン聴きながら唐揚げあがてると「人生」って感じがするな。
クリムゾンって、人生達観したり、悟ったような歌詞結構あって「生きるなんてそんなもの」みたいなさ。
でも実際はクリムゾンの歌詞みたいな達観した生のほうが虚構、ファンタジーじゃないですか。クリムゾンすら所詮は人生の一部で唐揚げの油まみれなわけ。
これだけ政治と社会がおかしいので、言及することが多くなるのは当たり前だし、仕方ないことだし、それはわかってるんだけど、それでもそこに不健全なものを感じてしまうってのが今の自分のモード。何が不健全なのかっていろいろ考えてるんだけど、やっぱり政治だけが強いコミュニケーションツールになってることに対する違和感が大きい。政治の言葉だけが、しかも基本、同じ思想の人たちにだけエコーチェンバーで広がっていく、それが報酬になってしまっている、その構造。むしろこの構造自体が敵なので……。だってSNS使って動員してるわけじゃん。真実は語れば自然にプリヴェイルしてくわけでもないのは分かったわけだし。私たちがやってるゲーム自体の問題を問うていかなければいけないのに、ゲームの中での勝敗、それも味方うちだけでのポイントの与え合いに夢中になってしまうことの気色悪さ。
政治が大事なのはわかるけど、無駄や無意味、おふざけが軽んじられて、ただただ政治の言葉だけが、強い感情の喚起を伴って伝播していくその構造自体がある種の政治性を持っているし。
最近全然本が読めない。定期的にそういうモードの時があるので仕方ないんだけど。こんなの読むよりも、かわいいもの見て癒されたり、美味しいもの食べて癒されたり、癒されるもの見つけて癒されたりするほうが、短い人生大事なことなんじゃないかと。
こういつ政治的な投稿したらウケる、フォロワーも増える、パワーをもっと持てるってのはわかってるけど、それをすることの危険性がなあ。逆にこんなこと言ったら嫌がられる、嫌われるのは分かってても、それを言ってかないと嘘だろってのもある。
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自分はもうあきらめきってるし、絶望しきってるんだが、毎日ニュース見てると、それでもろくでもない連中となんとか戦ってる真面目な人たちがいるのだよな。
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英語をネイティブとしない日本語ネイティブにとって、英語やその他の言語をみずから読んで理解するか翻訳機能を通じて読むことはあっても、きっとその逆はほとんどないよね。私なんかは日本語以外の言語でも、おもしろそうとか役に立ちそうとか思えばフォローしたり投稿の共有をしたりするけど、その逆の経験は皆無だし、それは私が無名のユーザーであることを考慮に入れてもだいたい当てはまっていると思うんだよね。
機械翻訳がまだ十分でないとはいえ、以前はほとんど使いものにならなかった日本語と各国語との翻訳でも、実感としては意味をくみとってネイティブ言語で理解するのにほぼ支障がないレベルには進化している。それにもかかわらず日本語で書かれたものをフォローする非日本語ネイティブのユーザーがほとんどいないのは、翻訳で相互の通行が可能なのに事実上は一方通行になっているわけで、言語と結びついた見えない権威、それに基づく内容の評価みたいなものがあるよなと。つまり、日本語で書かれたものは価値がないとかつまらないとか、あるいは価値があるとしても英語で十分なのでわざわざ読む必要はないとか。