「信用できる奴以外を信用すべきでない」が可視化されたのが現代で、それはまあ当然ではあるんだよな…… (あるいは「信用すべきでない奴を信用した場合の末路」とかが可視化されやすくなったと表現する方が正確かもしれないけど)
「信用できる奴以外を信用すべきでない」が可視化されたのが現代で、それはまあ当然ではあるんだよな…… (あるいは「信用すべきでない奴を信用した場合の末路」とかが可視化されやすくなったと表現する方が正確かもしれないけど)
「おすすめ」という概念自体もそうで、そもそもおすすめなんて信用できる人間か信用できる分野の人間からでないと信用できないわけで (進次郎構文)、そこにあって「私とは全然関係ないそこのあなたにおすすめ!」みたいなことをする †トレンド† とか †広告† とかが猛威をふるうことで「おすすめ」という概念そのものの信用を破壊していったのが現代
インターネッツつーのは wikipedia の各記事みたいなもの (カテゴリやトップページ等を除く) だと思うわけですよ。関心があるページ以外に無限に裾野があって、なんだかんだでリンクを数回辿ると遠くまで行ける。緩やかに繋がっている。
ところが、ゴッゴヨなんかを通して幻想を見出してしまう人は、インターネッツに「トップページ」みたいなものがあると思い込んでいるわけですね。インターネットを完全に見渡す権威があると信じていて、そこからリンク距離の遠いサイトという概念をそもそも認識していない。
彼ら彼女らの言う「インターネット」とは泡沫ページの群ではなく、「トップページ」とその直近のリンク先だけなんですね
インターネッツが過ごしづらくなったというのであれば、それはインターネッツが変わったのではなく「インターネッツとして認識される概念が泡沫ページの群ではなく †トップページ† になり、そっちが過ごしづらい空間であった」という可能性も十分にあるのではないかと、そう思うわけです
どうせなら互換性を担保したうえで複製と再拡散を容易にする方向に進んでほしいんだけど、人は他人をコントロールせずにはいられないので難しいのだろう
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結局宣伝は誰のためなのかというアレがあり、この観点で商業は大抵アウトなのでもう何もかも駄目
友人に対する「おすすめ」で自分が利益を得られるかというのと、サービス提供者や広告業者からの「おすすめ」で広告を出した側が利益を得られるかというのは、割と本質的な差だと思うんだけどね
じゃあ「バズったから宣伝 (←クソ)」は何なのかというと、まあ自己顕示欲か何かなんじゃないすか (知らんけど)
少なくとも「†バズった† 投稿を読んでくれた人のため」の情報でないことはほとんどなので、その点においては商業的な広告と同程度かそれ以上には “つまらない” ものよね
結局何が言いたいかというと、「誰かの都合」を押し付けられるタイプのリコメンドとかおすすめというのが本質的にクソなんじゃないかという話。
もちろん未知の何かを発見する機会になる可能性は否定しないけど、それはもっと別の方法で実現可能だし他人の都合を押し付けられることを選択する理由にはならないと思う
ローカルで動いたり特定のリモートサービスに依存しなかったり統計情報を送信しないようなソフトウェアは、利用すること自体が「自分でない誰かの利益」を目的にしていない蓋然性が高いという点で、いわゆる「普通の」オンラインサービスよりも信用できる
あるいは自由ソフトウェアも、「誰かの都合」のためにユーザに負担が押し付けられるケースを監視することができるという点でプロプライエタリだったりクローズドソースなソフトウェアやサービスよりも信用しやすい
オレンジ的には逆に、半分ネタみたいな「バズったので宣伝」はとてもポジティブにとらえてる><
他の『おすすめ情報』にも言えることかもだけど、無知の知を補間(?)できる貴重な機会だから><
自分が好んでる情報や自分が探してる情報のみを得ていたら、自分の知らないことに気づく機会がなくなっちゃう><
そういうのは「無関係な情報を in_reply_to で繋げる」とかいう abuse ではなく、単純にランダムな探索により発見したいという考えです
端的に言えば、関係ないものをスレッドに繋げるのは「スレッド内の投稿は同一のコンテキストを共有する」という期待、あるいは共有された意味を裏切っているわけです。
つまり「バズったので (無関係なものを) 宣伝」はメタデータで嘘を吐いている。不誠実で邪悪だ。
それはわからなくもないけど、「この一瞬だけ有名人になった人物はどういう人物か?」というのはかなり有用な情報であること多いかも><
「宣伝するものがないのでうちで飼ってる爬虫類見て!」とかもそこからその人の過去ログ漁って、そこからさらにググって爬虫類に関する知識得たりとか><
「この人物はどういう人物か」はタイムラインそのものであったり、まとめであったり、 bio であったりによって表明されるべきなのであって、スレッドというシステムを破壊する理由としては合理性が見当たりません……
「役に立つでしょ?だからわざわざこうして『見せてあげてる』んだよ (←余計なお世話)」みたいなのが本当に嫌いなので、そこらへんの感じ方が相容れない感じがあるな
他人 (あるいは任意のサービス) を信用してないので「余計なことをするな」という感想が頻繁に出がち。某ワードプロセッサとかもそうだったけど。
「お前は何を根拠に『私自身よりも私のことを知っている』と確信してるのか、あるいは何故その確信もなしに人が要求していない余計なことをするのか」という……
ユニックス哲学とかもそうだけど、何かをしたいならそれをするための文脈なり空間なりツールなりを用意するべきなのであって、勝手に人の世界を壊さないでほしいんだな
最初から全部入りの IDE みたいなのとか、そういうところが嫌いなんだよ (なんでわざわざ欲しくもない使いもしない機能を無効化して回らないといけないのか)
gentoo で gtk (ライブラリ) をインストールしたら C 言語用の拡張シンタックスファイルが導入されて .c ファイルで「Window」とかに特殊な色が付くようになったときは、さすがにブチギレした
誰が gtk のキーワードに常時特別な色を付けてくれと頼んだ???
気持ちはわからなくもないけど、不要な情報は脳内の方でフィルタしないと、むしろ判断を外に任せちゃってるのと同じになっちゃうし、そういう風に情報を絞るのを外側(?)に置いちゃうと、災害とかの時に「なんでいままで危険だって教えてくれなかったんだ!(なんで報道しなかったんだ!)」みたいなこと言い出す人と、結局同じ立場になっちゃうかも><
むしろ「調べようと思えなかった時点で敗北者」という SATUBATU 世界観で生きているので、あれこれ他人から言われるのと何も知らずに死ぬリスクだったら後者の方がマシだと思ってしまいますね
前者を避けるのはシャットアウトが難しいけど、後者は気付いたことから掘り下げるなり調べるなりすれば済む話なので
ご丁寧に「そこのあなた! そんな生き方では情報が偏ってしまいますよ!」というお節介を焼かれること自体が、私にとっては私生活への干渉と同等の迷惑ですね
警告してくれるのは大変結構だが、それを理由にゴミ情報を大量に投げ付けてこないでほしい
こう、自分の意思とか指示とか合意に基かない「余計なものを見せられる」というのは、自然でない力がかかっているということなんですよね。
それをより良い状態に変えようとすると、「自然でない力」と綱引きをしながらバランスをとらないといけなくなる。
だったらまっさらな状態から必要なものを揃えていくソリューションの方がバランスとりやすそうじゃないですか?
なるべく少ない最小限の情報や知識にしようって発想ではそうだけど、盲点をなるべく減らそうという観点からでは自分が知る情報からたどるだけではかなりつらいことになるかも><
https://mstdn.nere9.help/@orange_in_space/104717121422462118
この「盲点を減らす」というのが、無数の泡沫ページの群であるところのインターネッツ上ではそもそも本質的に困難であり、ポータルサイト的な立場の「リコメンデーション」や「特集」というのがあたかもそれを可能にしているかのように捉えられている、というところによろしくなさを感じている
結局どう足掻いてもそれは「リンクを辿る」の自動化あるいは距離の短縮に過ぎなくて、視点の広がりや観点の多様性の増加の担保にはならないんですよね。
「広く調べればいろいろな観点で物を見られる」というのは (少なくともインターネットにおいては) 幻想なんじゃないかというのが私の感想
インターネットのリンクを無限に辿って宇宙の果てまで行ったと思ったら御釈迦様の掌の上でした、みたいなことは (原理的にも) 発生しうることで
結局「偏りを減らそう」というのは「偏りのない状態」を規定できないのであれば無為な試みかもしれない、みたいな空虚な考えもなくはない。
偏りがあることを認めるところまでは行けるし行きたいけど、それが「全人類、あるいは全情報のなかでどういう立ち位置であるのか」というのは本当に正しく認識できるのか? というのはかなり微妙なんじゃないかと
滅茶苦茶雑な話をすると、そもそもインターネットへ公開が許されている情報に対して日本語と英語でしかアクセスできないわけで、その中でいくら情報を漁っても結局「インターネットで公開できる情報のうち日本語と英語でアクセスできるものの平均や重心」を偏りのない情報であると認識してしまうだけで……
結局、ただ自分も他人も偏った視点や考えを持っているということに合意すれば十分で、それ以上の「偏りの度合いを評価しようとする、あるいは『修正』しようとする」という試みに異議があるのか確信が持てねえなという話です
ほぼ全人類が地球を平面だと思ってた時代だってあったわけで、現代の人間集団も結局何かしらの観点ではそういう過渡的で歪んだ状態になってるわけで、じゃあそれを「多くの情報に触れる」ことで認識できるだろうかと。
それができないのであれば、多種多様な情報に触れるというのは結局「平均値に向かう」でしかないのではないかと。
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「自分には見えていない領域がある」という情報は、実は視野を広げようとしてもそれ以上は情報量が上がらないのではないか、という表現をすればいいのかな
「前は見えていて後ろが見えていない」という認識があれば十分で、だからといってビュンビュン首を振って前後左右上下を注視し続ける必要があるかは別の話、みたいな。
しかも思想というのは「前後左右上下」のように網羅的に捕捉できないわけで。
自分が前を向いていて後ろが見えていないことを知っていればそれで少なくとも偏りを認識することはできているわけで、そこで「おい、そこのお前! 後ろが見えてないぞ!!!」つって首をガッと180度回転されるとチョー不愉快なんですケド!!?!!?? という話なんだな
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/104717014906497135
https://mastodon.cardina1.red/@lo48576/104717055702434153
繋がった
つまり私は中立性というものは相対的であって、絶対的な中立というのは人間では到達しえない、そもそも定義すら困難であるし目指すことも不毛であると考えているわけか。なるほどな
無批判でなにもかも受け入れればそりゃそうかも><
でも、情報間の矛盾に注目したり、時には「この情報をぶん殴ってやろう><」って批判的に情報を見ることで、誤りをあぶり出すことができるかも><
それやるとだいたい嫌われるけど><;
まあ「これは殴らずにはいられねえな」というものがあることは否定しないけど、それは負の方向であれ「関心を持っている」状態であると言えるし、必要になってから武器を揃えるのでは駄目なのだろうかというのはある (それはそれで苦労するには違いないけど)
散歩してて遭難したり家の鍵を落としてロックアウトされたりすることはあるかもしれないけど、遭難前提グッズを持って重装備で出掛ける人はあまりいないし、それでいいんじゃないのと思うわけです
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https://mastodon.tojo.tokyo/@tojoqk/104717216896501839
そう考えると、大手サイトによるリコメンデーションというのはユーザを画一化してマーケティングを更に行いやすくするという正のフィードバック効果があるわけか。
めちゃくちゃ効率的だな
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道徳教育とか完全にアレだけど、なんだかんだでやっぱり実益はあるので、その辺りどういう正当化の理屈があるのか気にならなくはない
(実益があるからといって「水にありがとうと声をかけると……」とか言ってた教諭を許せるわけではないけど)
オレンジは絶対的な中立なんて求めてなくて、単により多くより多くの気づいていなかった視点をとにかく無限にできる限り増やしていけば、問題や矛盾や解法に気づけるかもって考えてるかも><
それはそうなので、だからこそ「バズったけど宣伝するものがないのでうちのペットの写真も見て!」みたいなちょっとずれた情報までも追ってるって言ってる><
べつに情報を追うことは否定してなくて (好奇心の趣くままにやればいいし、そうできるべき)、同意や意思に基かない情報を押し付つけることを正当化するのはかなり難しいんじゃないか、という話ですね
なんか胡散臭いエセ科学とかも、信じ込みたい人は細い糸を手繰ってマイナーな情報源を多数かき集めてくるわけで、あの姿勢は「大衆に信じられている嘘を見抜き否定する」という観点で抽象化すると簡単に相対化できてしまうので、まったくおそろしい話ですよ
(我々があちらサイドの人間でないことを示す術がない)
あとプレイ中意外と事故るのが教室の隅から机まで戻る途中で、ワープ地点ミスるとかなちゃんの動線とぶつかってなめ判定入って終わってしまう
もう一つ低確率だけど事故ると痛いのがゴミ箱内オブジェクト(主にポッキーっぽい箱)の回収で、これは急ぎすぎると出ていく前のかなちゃんに引っかかって死ぬ
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あとは手を引っ込めるときも運が悪いと自分の舌にぶつかって死ぬし、アイテムドロップを掴み損ねると最悪の場合かなちゃんの目の前で舌に直撃して死ぬ
特定の命題について真偽が変わるというの、それ単に前提と意味論 (自然な言葉で言うなら「文脈」) が共有できてないだけじゃん、真偽の判定以前の問題でしょ……という立場なので、情報が正しくもあり間違ってもいるという表現は「そもそもそれを一般的に判定できる状況にないことを意味している」というサインでしかないと認識している
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もちろん、内容に関係なく構文的に誤りを指摘できるものもあるけど、それは特例なのでおいておく
なので、「情報に十分に『文脈』を記号化して付与することは現実的には不可能なので、記号化されたあらゆる情報は一般的に真である文脈と偽である文脈を想定できる」という主張なら賛同できるけど、その場合、この文脈での「情報」の定義が「複雑な現実について文脈を完全に付記せず何事かを主張したもの」でしかないので、情報が無味無臭で客観的でないのは単に定義の問題かなと
人間が情報のエンコード・デコードを持て余すからといって、その結果発生した特色が「情報」の一般的な性質であるかというと……ちょっとすぐには同意できないかなと思っている
私はかなり記号と定義を重視する界隈に浸っていたので、人間が不完全なのを人間以外のせいにするのは……というお気持ちがあります
命題や証明の “正しさ” について合意がとれないの、純粋に公理系が違うか前提が共有されていないかのどちらかでしかないという考えです
そういう意味では、あらゆるディスコミュニケーションは情報共有の拒否や不完全さから生ずるものであって、その相互不理解に何か “人間や自然のの本質的な理解不能の神秘” みたいなものが存在するといった神秘への信仰みたいなのは持っていない
まあこの世界観は結局「情報のエンコードが不完全です (おわり NHK)」という結論しか導かないので、実用上の価値がないといえばそうかもしれませんね。