れめ
れめ
村雨さんとかは公正世界仮説を強く内面化してるみたいなところがあって、善人というのは(世間一般に認められる)報いというものがあって然るべきであり、その考えを捨てきれないから色んな人間の腹をかっさばくことで過度に「人間の末路は大体こんなもんだ」みたいな思想を定期的に強化してたというか、思い込もうとしてたとこあんじゃないかな~と思ったり
なのでユミピコの導きにより「人間が報われたかそうでないかは他人が決めることではない」という方向に思考の舵を切れたことで”突破”したのかなあ
ゆみぴこの話もするけど、ゆみぴこってよく私を信仰しろとは言うもののゆみぴこ的な教義って内なる神への信仰なわけだから、ゆみぴこ自身を盲信するのはまた違っていてあくまで「自分で自分の内なる神を見つけよ」の話であって、でもそれって別にゆみぴこの教義が特殊ってわけでもなくて宗教の普遍的な考え方って感じもあるんだよな いや宗教学にはあかるくないので完全に勘ですが
「善いことをしろ」ってのは「己が善いと信じることをしろ」って話であって、世間一般に善いとされることをしろってことでもないんじゃないかなって(じゃないと人殺しの自分を善人とは言わないのでは) だから懺悔室に来る奴らってのは元々「善くないことをしてしまった」と思っている人間だから、必然的に善いことをしている人間率が低くなる ズルみたいな理論だけど
それでいうとナベ先の減点方式から加点方式へ、みたいな話にも繋がりそうなとこあって、個人が個人のまま存在するということがどういうことか、そこに意味や価値を見出すのは果たして誰になるのか、的なことを話したいのかな~って感じあるよね
人間の自我は自我のまま自我だけで存在することはできないってのは作中で自明の理論ではあるけど、他者との交わりの中で研磨された自分という存在がどう振る舞うかとかどういう方向を向くかっていうのが、自分にしか決められないし自分しか価値も意味づけもできない、っていう視点が強くある…きがする……?
ご存知の通りあの世界のギャンブラーは己を見つめて己を知った者から”突破”していくわけだけど、じゃあ今クソ強い真経津さんはすでに一回”突破”してる可能性があって、そして己を知るためには他者が必要だから”突破”のための他者が過去に存在した可能性もあり、その他者に”呪い”を受けている可能性もあるのか?と俺の無から行間の小宇宙を生み出す能力が発動してしまった
でもその”呪い”を受けて自分がどうなったか、どう考えたかを更に他者と共有して見つめ直さなければその”呪い”からは脱出できないわけだから、主人公である真経津さんは第二の突破を控えていると言っても過言ではない(そうか?)
真経津さん、超然とした理解不能な存在でいてほしい気持ちと、過去や心の底に少し触れられるようになったことで”堕天”してほしいというオタク心が2つあります
ギャンブラーってやっぱ全員噛み応えがあるせいで未だ誰推しみたいなん決められない みんな好きだよ…❤というよりは、まだ好きになれる領域に踏み込めていないよな気がする
「女性はみんな大なり小なり性被害にあったことがあるので、性被害への訴えに連帯することができる」という論を目にした時の、なんとも噛み切れないモヤつき
こぼしている要素がいっぱいある気がする……同じ体験による連帯感情は強くなることはわかるんだけど、やっぱりなんかこう同じ体験をしていない者を外にやるような言い方は、好きになれないというか……
それだと性的マジョリティによるアライ活動も、住居所持者による路上生活者支援活動も、虐殺未経験者による虐殺反対運動も”弱い”ってことになってしまうけど、実際は全然そうではないから、うーんなんだろう…言いたいことはわかるんですが……みたいな……
というか属性や体験の共有によって連帯を強めた結果怖い方向に向かう人を見ているが故というところもあるのかも……しれない…… 同じ経験の感情の共有が必要な場面って、なんというか、もっとミクロな場合なんじゃないかとか思いまして……
それこそ1対1や少人数グループで経験を話し合って心的ストレスの治癒を図るとかそういう場面のことであって、旗印としての経験の共有ってもっと慎重になった方がいんじゃないかなあ~みたいな…… 経験のない者でも同じ志を持って声を上げるのが市民活動といいますか…もにょ……
あとやっぱり傷を大勢に開示しないと連帯の輪に加われなくなる状況は、なんか良くないと思う…単純に苦しむんじゃないかと思うし……いやそれでも抵抗しようとする人たちは強いしすごいと思うけど、傷を見せたくない人もやっぱりいるし……
それはそれとして、不合意性交を実際に行ったり軽く見たり同意していないという意思表示を勝手に魔解釈する奴は許すべきでないぞ
そういえばブルーノのホットプレートを手に入れたため、冬休みはタコパとなります ご承知おきください
たこ焼きってずっと概ねたこ一種でやっていってるのすごいよな たい焼きとか大判焼きとかもみじ饅頭とかお好み焼きとかは具材に手を変え品を変えやってるのに、たこ焼き屋でたこ以外入れてまーすって店はなかなか見ない 大体上になんかかけるやつをアレンジしてる
たこ焼きをアレンジするとき一番変更を考えるのって中の具材なのに、中の具材にはほぼ触れられてないの、奇妙 禁忌なの?
一応イイダコを入れて足出してまーすみたいなアレンジは見るけど結局タコの範疇だしな……あの形で塩辛いおやつ的な粉ものでタコ以外が入っているのは貴重
いや、でもあれか?中の具材が見えにくいっていうのはオペレーションの上で難しくなってくるのか?たこ以外の具材で一種類だけ作って売れるのは難しいが、かといって色んな具材を用意してミスなく注文を受けるのも難しいみたいな…
命を知る→ロボ(型のおもちゃ)という題材も割と安直な感じはあるし、あとなんで片方は完全に女性表象やねーんてなる(このツッコミ何万回かしとるな)
性別や人種やそういったものを限定しない良さがロボキャラにはあるのに、ロボキャラに対するヒロインは女性表象なんかい!になるじゃん てかなんかそういう人間と距離を置いた雰囲気、生々しくない雰囲気を求めてロボキャラにしたんじゃないかと思うのに、お相手はかわいらしい女性表象かい!になるじゃんて ラノベかて
お相手がかわいらしい女性表象人形であることで、どうしてもボーイミーツガール的な視点が入ってきちゃって、おもちゃという純粋さ、染まってなさ、無邪気さのような子どもを強く表現するモチーフの良さが損なわれてるんじゃないかとぼかぁ思いますが…
俺は子どものことを純粋で無邪気とは思ってないけど、みんな子ども表象をそういうふうに描くの好きでしょう
主人公がロボならさ~~~…相手のおもちゃは別に犬でもパンダでも他のロボっぽい奴でもよかったわけじゃないすか……なんで”恋”の文脈を強く想起させなきゃなんないんだろう……いやまあ訴求力が高いって話でしょうけども……
ロボおもちゃの恋だったら別にロボおもちゃ相手でもいいし、犬やパンダに恋したっていいのに、見栄えとかわかりやすさとかで女性表象人形が選ばれて、ウチは悲しいよ
やだやだやだ!あんなに人間のぐちゃぐちゃなのに純粋な感情を歌った唄なのにロボが感情を得て自己犠牲的な優しさを施す飲み込みやすいMVになってるのやだ!!!えーん!!!!
全然関係ないけど、俺はものに愛着が湧くと捨てるのが偲びなくて譲ったり売ったりした方がいいのかなあ~と思っちゃうんだけど、同居人は「自分の手で終わらせたい」と考えており、武士?と毎回思う
友人が間違った道に進んでラスボスになったとき自らの剣でとどめを刺すことが一番の餞だと思っていそう
アルコールやっぱまだ得意じゃないからモクテルをカパカパ家で飲みたい気持ち(アルコールはなくても糖質はあるゾ)