咲奈氏のデザインのあのヘアクリップなんなん?洗顔のときにつけっぱなしで学校来たんか?
マジで髪型のレパートリーないかよ……はあ〜…………歪曲王以降もメディアミックスしないかな……
https://x.com/KS_______T/status/1799267749946101793
この漫画(というかこの人の漫画)結構好きなんだけど、引用とかに「こういう感情の動きは思春期あるあるだよね」というような感想がついてて、実際「善性が強い人間をなんらかのマイナス感情を持って忌避する」という感情の動きはよくフィクション上で見るんだけど、私はそれがあんまりなかったな、ということを考えた
そういう感情の動きが「人間み」として捉えられることってしばしばで、マイナス感情を抱くことが人間みってことなのか?って思うことがよくある 善性はあまり人間みとしてカウントされない
善性が強い人間を忌避しないことは自らも善性が強い故なのかと言われると多分そうとも限らなくて、なんだろうな 多分善性のあることをしたいと思っているのにしない(できない)状況にある自分への不平不満を映しとっている状態だから忌避するわけで、自分が善性を実行してなくても満足なら忌避もしない気はするんだよな
俺がなぜその忌避感情を持たなかったのかは知らないけど 忌避感情を持つ人のことも根本的にはわかっていない フィクションでばかり見てるので
俺ってもしかしてあんまり”人間み”のない人間だったりするのか?そんなまさか こんなにめんどくさいことばっか考えてるんだから誰よりも人間みがあるだろ
フィクションで描かれるマイナス感情を”人間味”と称する行い、無理やりポジティブに言い換えようとしている気もするが、かといって別に人間のあじがするからポジティブか?って感じもある うーん ”人間味”ってなに……
これは結局一部の人に流通しているマイナス感情を”人間味”と称して味わうことで回り回って自分自身を肯定しようとする試みだったりするのか?それに関しては全然悪いことではないというか、”共感”という、ありふれた物語の読み方ではあるよな
マイナス感情をフィクションを通して肯定する試みをやるのはとても良い物語の楽しみ方だよな~と思うものの、あまりに”人間味”という表現が用いられすぎていて、人間ってなんだともなる 善性は人間味として扱われにくいが、しかし善性だって人くらいしかやらない行いでは?とも思う
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ああたしかに~~~になったし、そういえば思春期と呼ばれる時期に何かの集団への帰属意識が薄かったからこの感覚を得にくいのもそうかも……になった
別に俺は善性が強かったわけでもなく、単に捻てただけなんだけど 帰属意識を強く抱けない状態で人生を送ると、なんかフィクションの感情の機微とかを取りこぼしてしまっている気がする 損だ……
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俺はなんか多分すごい運がいいために恵まれてた方で、のほほんと生きられたから人間関係に必死にならずに済んだ、みたいなところもあるんだろうなと思ってて、そういう特権的な部分が感覚の断絶にもなるよなあ……になる
教室、心理的安全性が往々にして低いからどうにかいい環境であってほしいよな~~~
人間にいろいろいるはずなのに、フィクションの評価で使われる”人間味”という表現が、何か特定の感情の動きばかりを差しすぎていて、言葉の意味が正確じゃなさすぎるのが気に食わないってだけかも そういった心の動きは存在し得るが、”人間味”を冠するには少々主語がデカいです、という
それなら地球に危機が迫っているので自分を犠牲にしてでも地球を救う、みたいな心だって”人間味”と称していい
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けど大なり小なり人の中には「みんなやってるからちょっとくらいいいか」が存在していることは事実として多分あって(もしかしたらない人もいる)、まあサインを一回書くくらいならボールペン勝手に借りていいかとか、うっかりポケットからレシートが落ちちゃったけど拾ってる時間で電車乗り過ごしちゃうからそのままにしちゃおとか、そういうのってあって、そこの基準をどうするか、優先順位をどう判断するか、ってのも物差しとしては重要なのかなと思う 倫理規範と大衆への迎合は背中合わせでも隣り合わせでもあったりして、それがなんかこう……難しいよねえ~~~~
あんま関係ないけど、平気で傘パクする奴がいて(そういうのやめろよとは言ったがあんま聞いてくれなかった)、そいつのチャリ盗まれたときキレてたのでラインって様々なんだろうな、と思うなど
それに関して言うと、倫理規範と利己的な利便性を天秤にかける行いは「思春期」でなく「人間」に普遍の行いなのかな
大衆の空気による悪い方への流れの醸成っていうのは、構造を変えてもなかなか是正が難しくて(というか本質的な解決にはならなくて)、じゃあどうすればええのよっていうとそれを押し戻すのもまた大衆の空気しかないわけで、結局「個人ががんばって働きかけて空気を変えていくしかないんじゃないですか?」になり、しかし善性のある人ががんばって働きかけていくほどすり減っていく部分もあり、どうすればいいんだろうねこういうのは…
俺はそういうの、フィクションにも担えると思ってるんだよな 善性を実行する人を「遠い世界の仏様」みたいに思ってる人結構いると思うけど、そういう人ばかりじゃなくて、生活をやりながらちょっとずつできる範囲でやってる人がいっぱいいるってことを物語がうまく発信していければ、善性を実行する人って別に違う人種とかでもないんだ~って親しみが湧くというか 善性のやり方にも色々あるよ、を示すことも大事なんじゃな~いのっつって
善性をやらないことに息苦しさやままならなさを感じる人がいるなら善性をやってみたらいい、そういうことをする人が他にもいっぱいいるからオッケーオッケーという背中を押すようなフィクションが……俺は……好きで……
「大衆に倣ってずるいことをしてた弱虫が勇気を出して善性をやってみる」やつすごい好き ”人間味”を感じる
というかそもそも人間には多面性があり良いも悪いも内包しがちだから、どこを切り取るか、どこをその事象の”終わり”とするかによって変わってくる部分あるよな
連続性のある人間は物語ではないので、善性で”終わる”ことも悪性で”終わる”こともなかなか難しい 善や悪を行ったり来たりしながら連続的な記憶を積み重ねていかなければならないから、なにかをものにしたいときどうしても継続性が重視される 人間性が継続によって判断されるのってそういうことか?
まあだからこそ善をコツコツやっている人っていうのが眩しいのはそう だけど善を”ものにする”ためには……今が一番早い!今のうちにやっとこう 善
人間には善の側面も悪の側面も発生し得るので、他人はその側面を好き勝手に切り取って「あいつは悪い奴だ」とか「あいつは良い奴だ」とか言うので、他者評価を善の指標とするのが難しいってのは、ある(継続が難しいよね)