13:08:02 @002mahiro002@fedibird.com
icon

こんなに長々書いてしまうのは、自分が語り残す相手がいないから、というのもあるし、いつか自分がボケて思い出すことができなくなっても、 :fediverse: に漂わせれば誰かの目に止まってくれるかもしれない、という淡い期待で流している。
海に流す手紙入りの瓶みたいなものだと思っていただければ🍾

今日は盆提灯片付けないといけない日だし。供養も兼ねて失礼しました。

13:01:23 @002mahiro002@fedibird.com
2023-08-08 12:32:23 わぎりライムの投稿 Lime_crawl@misskey.io
icon

このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。

12:59:25 @002mahiro002@fedibird.com
またも長いのでたたみます。戦争を忌避していた母方の祖父について。(8/9に長崎のキノコ雲を見た祖父です)
icon

母方の両親(祖父母)は戦時中40代にも関わらず、戦争にできる限り関わるまいとしていた人だったようだ。
特に祖父は病気がちだったこともあり隣組の消火訓練📣 などには参加せず、空襲警報がなっても防空壕にも入らず(曰くこんな田舎まで米軍機が入り込んでいるから、空襲になればどこに逃げてもむただと)毎日海に出て、自分たちの分だけ魚🎣 を獲ってくる生活を続けていたそうだ。…ゲンのとーちゃんみたいな祖父である。

長男を戦争に引っ張られるのを止めるために神主にしたり(実際国学院に入学させてた)。しかしそこまでして守ろうとした長男は特攻に志願し、鹿屋の連隊に入隊したのが8月初旬という危ういところだったことも付記したい。
ずっと戦争が外交政策の一部だったことを知っている世代と、太平洋戦争が最初の戦争と感じている長男との意識のギャップがあったようだ。

今でも戦中世代と戦後世代の意識の違いがあるように「戦争」は長々と世代を分断する。

写真は祖父が魚釣りをしていたであろうあたりの写真。ここで長崎のキノコ雲をみたのだ。

Attach image
12:19:19 @002mahiro002@fedibird.com
長いので折りたたみ。父から聞いた話。8/15北部九州の田舎で「玉音放送」が流れた日の聴き起こし(父自身は未就学児童でした)
icon

78年前のこの日は東京では晴れてたが、こちらは昼前から雨が降っていた(九州北部は8月に入ってから天候が優れない日が多く、8/9の長崎原爆投下も実際の目標は小倉だったという。その日小倉上空は曇っていた)

2、3日前から8/15に大事な放送がある、と町内でお触れが回っていたそうだ。近所でラジオを持っていたのがウチだけだったこともあり、大勢の大人たち、近所の友人と一緒にその時間が来るのを待っていたそうだ。

件の「詔」を聞いたとき大人達は土下座したり頭を下げたりしてはいなかったようだ。涙はなく、ただ溜息だけが漏れていたという。
皆、薄々敗戦を感じていたんだろう。こんな田舎にまで機銃掃射されてたし(実際父は田んぼの畦道を歩いていた際、機銃掃射に追いかけ回された経験がある)父はよく聞き取れない変な声がラジオから流れているだけ、としか思わなかったそうだ。

ただ終わったということだけは分かった。45歳を過ぎたにも関わらず6月に招集され、久留米の駐屯地にいた祖父が帰ってくるだろうことだけがわかって嬉しかった、と話してくれた。

写真は8/8の小倉市内の写真から

Attach image
11:08:45 @002mahiro002@fedibird.com
2023-08-15 11:01:45 のえるの投稿 noellabo@fedibird.com
icon

エモ字だったのか

10:54:36 @002mahiro002@fedibird.com
2023-08-15 10:31:30 HyoYoshikawaの投稿 hyoyoshikawa@toot.blue
icon

このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。