http://blog.tatsuru.com/2005/04/03_1843.html
今日的状況は、とっくに予言されている。
テクノロジーの進化により、情報の生産手段・流通手段が低廉化し、「民主化」が完成しつつある。
オルテガの『大衆の反逆』はニーチェが「蓄群」という名で罵り続けた社会階層「大衆」(masse) が、テクノロジーの進歩と民主主義の勝利によって、社会全体を文字通り空間的に占有するにいたった状況をかなり悲観的に論じた書物である。
ニーチェの「蓄群」は愚鈍ではあったが、自分が自力で思考しているとか、自分の意見をみんなが拝聴すべきであるとか、自分の趣味や知見が先端的であるとか思い込むほど図々しくはなかった。ところが、オルテガ的「大衆」は傲慢にも自分のことを「知的に完全である」と信じ込み、「自分の外にあるものの必要性を感じない」まま「自己閉塞の機構」のなかにのうのうと安住しているのである。
ニーチェにおいては貴族だけの特権であったあの「イノセントな自己肯定」が社会全体に蔓延したのが大衆社会である。
「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」