@mimiduku この文脈で分析的であるということは何かと考えると、言葉の指す対象に、数学的・記号的に厳格な世界が「在り」、書き下した形に「降りていく」事ができるという確信があることなのかなと思います。
これからも一部の人は(自然と)優秀であり続けるだろうので、急いで無理して「人材」に製材する必要もないと私は思いますが、それはそれとして、日常生活から工芸が失われ、触れるものが世界の法則から人為的なスペクタクルに置き換わっている現代において、普通の人が「舞台裏」の「論理のからくり」を体得することは、(思ったより多くの)ある種の人々にとって、主体性を取り戻すうえで大切なのではないかと私は思っています。優秀な人は石を見て鉱物を発見しますが、ちょっとした契機が「自然と優秀でいること」を後押しするのではないかとも。