糞リプ
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宮地先生のテキストは私のアプローチには合わない気がして、判断を留保していた。
しかし宮地先生のあのリズムとペースによって動く何かがあることがわかり、大変良かった。大変に価値があるし、貴重だと感じる。
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あと「気合い」は自分が入れるものではなく、長い時間をかけて「満ちる」ものだと佐治さんが考えられているのが印象深い。
「気合い」も自らの意思でコントロール可能なものではなく、自分の意思を超えたものなのだろう。
佐治武士さんといえば、武生刃物の名鍛冶で有名。私もずっと以前からそのご高名だけは知っていた。
昨日読んだ織本篤資『和式ナイフ』で織本さんと佐治さんのこんなやりとりが紹介されており、強く印象に残った。
「私がお邪魔した日、鍛練場わきにある事務所の片隅に、八角形の錆びた鉄棒が立てかけられていた。長さは1メートルほどか。手に取って見ると、中空になっている。
『火縄銃の銃身ですよ。江戸中期ものらしいけど、懇意なカスタマーが送ってきたんです』
『カスタムナイフの注文ですか?』
『そう。玉鋼のナイフがぜひ欲しいといって』
『凝った客がいるもんですね』
『こういう高価な時代モノを探してきて、送ってくれる客のことを想うと、滅多な刃物は造れない。気合いが入るまで、放ったらかしだな』
『シメキリなし?』
『そう、じりじりと焦りながらシメキリを無視する』
『長く待たせる人では、どの位?』
『2年待ってもらってるカスマターもいます』
『よく怒り出さないものですね』
『怒るひともいるけれど、納得のいかない品を渡すよりもマシだから』」(163-164頁)
やっぱ職人って、資本主義には合わんよなと思った。
伊丹十三の「スーパーの女」では目の敵にされたが、やはり私はこういう価値観が好きだ。めんどくせえけど。
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生活に正解はないけど不正解はたくさんある。
例えば布団をかびさせるとよくないとか、油を加熱しすぎると火が出るとか。
なので「それぞれが正解」とされると、恐ろしくて「ちと勘弁」となってしまう。
不正解から学んで、より良いものを目指す姿勢が失われるので。