コロナ禍は人の命の重さに対する感覚を鈍らせて、しかたないと人を見捨てるハードルをとてつもなく下げたように思う
ヒルビルのやつじゃん
“他人が装着するイヤフォンだけに“いきなり音楽を注入できる”システム 明治大が開発” https://htn.to/23t5oP64LV
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"そんでなんかさあ、夜の飲み屋街で、麦クンと絹チャンがさあ…… ああ〜マジで許せんこれ 麦くんと絹ちゃんじゃないだろ ありえないんだ
亮太と唯がさあ、夜の飲み屋街で、押井守がウンヌンつって意気投合、みたいなシーンなんだけど、なんか、女の子の方がトイレットペーパー両手にもってんのね"
このあたり、『桃尻娘』の榊原玲奈さんがしゃべってるのかと思った。
映画まだ見てないけど見たくなったな。ともあれ「アレルギー」のこの使い方はよくない。
「花束みたいな恋をした」、アレルギー反応がヤバい
https://anond.hatelabo.jp/20230109155155
外食とか出前のカードって、子供が小さいときほど切りやすいとこある。
大きくなると、部活や塾で帰りが遅くなったり、(休日でも)弁当がいることが増えたりするから、いつでも家で何かしらごはん作れるようにしとくのがいちばん対応しやすい。
大学や大学院に行かなくたって、何かを「使いこなせる」(生み出せる)レベルまで学んだ経験があるなら、絶対にそういう発想にはならないはずだし、せめて絶対に批判しなければならないポイントだけは見逃せないはず、と思うのだけど、そうはなってないというか。
「聞いたことある」「読んだことある」の数を増やすことだけが学びだと思ってる段階の人が、「使いこなせる」まで学んできた人たちの言葉を、入り口で単なる知識自慢と切り捨ててシャットアウトしてるように見える状況は、共感性羞恥を通り越してなかなかグロテスク。
ネットに限らず、相手をウエメセ側において、自分の「いいこと思いついた」を心地よく肯定してくれるまで、相手の知性を貶め続けるのが流行ってるから、なかなか手強い。
英語含む教育改革周りの議論を見てると、学生時代あまりまじめに勉強してこなかった割に、実家の資本に頼りつつ要領よくお金が懐に入ってくる地位を得た(プチ)成金が、過去の自分を正当化しつつ自分たちの子供にも同じ利益を与えるために、それらしい理屈をかき集めてごちゃごちゃ言ってるような印象を受ける。
だから、思想はどう見てもネオリベな人が、自分たちを「革新」に位置づけて、対抗する人たちを「保守的」と罵倒するみたいな捻れが散見される感じ。
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