お弁当ひとりで食べたい…
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ご飯食べて落ち着いたし覚えているうちにMatteo Venier先生の講演をまとめときます(西洋古典学会69回大会(名古屋大学)).
シーリウス・イタリクスのPunica(『ポエニ戦役』)は1417年にポッジョ・ブラッチョリーニによって再発見されるまで忘れられていたというのが通上の了解なのだけれども,フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374)
のラテン語叙事詩『アフリカ』は主題的に近しく,その中にはシーリウスを模倣したように思われる詩句が見られることからペトラルカはシーリウスを知って読んでいたのではないかという説がこれまでに幾度か複数の学者により提出されている.
そして今回の議論は,シーリウスとペトラルカに相互に類似している箇所があるのは確かだが,それは後者が前者を直接模倣したのではなく,フロールスやアウグスティーヌス,イーシドールスといったペトラルカが確実に知っていた他の典拠に依った記述が偶然的に類似性を示しているというものだった.
ペトラルカとシーリウス・イタリクス問題というのがあって研究もあって,MartellottiのPetrarca e Silio Italico: un confronto impossibileが1983年だからもうこれだけ議論されてきたというのは恥ずかしながら知らなかったのでなるほどなぁと.
ちなみにペトラルカがシーリウスを知っていたという説を採る学者の名前のうちにCarlo Santiniが入っていて,彼はシーリウス・イタリクスの研究もしているのは勿論,Prefazioni, prologhi, proemi di opere tecnico-scientifiche latine(https://gnosia.info/@ncrt035/99767345613148711 )の編者でありTeubner版のエウトロピウス『ローマ建国以来の略史』校訂者でもあるので仕事の幅に改めて驚くなど.
「今一方に数理と器械を持たない赤手(せきしゅ)のルクレチウスを立たせ、これと並べて他方に数学書と器械を山ほど積み上げた戸棚(とだな)を並立させてよくよくながめて見るのもおもしろい。ルクレチウスは素手でともかくも後代の物理的科学の基礎を置いたことは事実であるのに、頭脳のない書物と器械だけでは科学は秋毫(しゅうごう)も進められないのである」
「このおそらく永遠に未完成であるべき物理的科学の殿堂の基礎はだれが置いたか。これはもちろん一人や二人の業績ではない。しかしその最初のプランを置き最初の大黒柱を立てたものは、おそらくルクレチウスの書物の内容を寄与したエピキュリアンの哲学者でなければならない。人はアリストテレスやピタゴラスをあげるかもしれない……しかし彼らの立っていた地盤は今の自然科学のそれとはむしろ対蹠的(たいせきてき)に反対なものであったように見える。……そういう目的論的形而上学的のにおいをきれいに脱却して、ほとんど現在の意味における物理的科学の根本方針を定めたものはおそらくエピクロス派の人々でなければならない」
「私は思う。直観と夢とは別物である。科学というものは畢竟(ひっきょう)「わかりやすい言葉に書き直した直観」であり、直観は「人間に読めない国語でしるされた科学書の最後の結論」ではないか。ルクレチウスを読みながら私はしばしばこのような妄想(もうそう)に襲われるのである」
第6巻の終わりに関するこういう感想は素朴ながら鋭さを感じさせる.
「この疫病の記述によってルクレチウスの De Rerum Natura は終わっている。これはわれわれになんとなく物足りない感じを与える。ルクレチウスはおそらく、この後にさらに何物かを付加する考えがあったのではないか。私はこの書に結末らしい結末のない事をかえっておもしろくも思うものである。実際科学の巻物には始めはあっても終わりはないはずである」
ところでこの冒頭にあるマンローのルクレーティウスは,私も必要があるときに繙く本ですが,雑誌Natureの1928年4月14日号にダルシー・タムソンが紹介文を載せていると寺田は書いている.
その記事はこれ(https://doi.org/10.1038/121565a0 )で,この「ダルシー・タムソン」とはやはりD'Arcy Wentworth Thompsonのことであり,この人は生物学者であると同時にまた古典学者でもあって,アリストテレース『動物誌』の翻訳や古代ギリシアの鳥類・魚類に関する辞典を編むなど大きな仕事を残している(トムソンについての簡単な紹介 https://stromateis.info/zib/thompson.html ).
日本で草地が10万年以上維持されてきたことを実証 -近年の草地の激減は地質学的時間スケールで大きな出来事- — 京都大学 http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2019/190529_1.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
開幕すぐキレのいい皮肉が飛び込んできたので誰かと思ったら流石の赤木さんだった.
「志らくさんの願い 今日も叶いましたよ」(赤木智弘) - BLOGOS(ブロゴス) https://blogos.com/outline/381324/
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イェール大学が2019年2月に,図書館の蔵書を15万冊から4万冊に減らそうとして学生の猛反発にあった話が出ている.
紙の本は大学の図書館から姿を消しつつある - GIGAZINE
https://gigazine.net/news/20190528-college-libraries-books-decrease/
バージニア大学で,学生数は増えているのに,過去10年間での図書館の貸し出し数は1年あたり23万8000冊から6万冊に減少している,とも.
もしかして,今時分では,ほんの数か所確認したい・控えておきたいくらいだと貸出手続きが面倒で,スマホでパシャリとやって済ます,みたいな人もいるのではと捻くれた推測をしたりする(それだと貸出履歴には残らないけど一応「利用」の実態はあることに)
実際100年くらい前に出た本を借りたらページがアンカットのままで,つまりそれまで誰にも読まれたことがなかったらしい,というのは別に珍しいことではないので,そういう資料にきちんとデータとして利用記録が残らないと,「こんな何年も使われないもんを取って置きやがって」と言われたときにエビデンスを以て反論できないという不都合がある.
アイスランドの国別トップレベルドメインはisなので,ギリシア語の抽象名詞でドメインハックできることが知られているが,具体的に何か取りたいかって聞かれると微妙.
ミリブロNews:H&K社に『破産』の恐れ。「事業活動の継続に関連する重大な不確実性がある」監査法人が警告 https://news.militaryblog.jp/web/KPMG-warns/against-bankruptcy-of-Heckler-Koch.html
学生さんからの質問に答えるために調べ物をしていたら,2人称の人称代名詞tuに呼格(呼びかけ)の意味があるのかだけを詳しく論じた論文があることがわかった.
Vairel, H., ‘Le Problème du Cas de Tu: Nominativus Tantum, Vocativus Tantum, ou Uterque?’, Revue de Philologie, 60 (1986), 31–57.
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ふむっ「社会人ドクター制度について:ZOZO研究所の研究に関連する分野において、博士号の取得を希望する者に対し、共同研究先との研究開発と修学を優先業務として、給与とは別に修了に必要な学費を支援する制度です」
https://hrmos.co/pages/zozotech/jobs/0000078
!
アニメ「放課後ていぼう日誌」7月7日より第1話から放送再開 - コミックナタリー https://natalie.mu/comic/news/381460
「あいされて」「え~~っち」で区切ったので残りが🤔 になってしまった
https://don.neso.tech/@neso/104279588107620874
ラテン語のdesideroは「欲する」だけでなくて「~がない,欠けている」という意味にも使うからね.
quaeroもそうだけれども「探し求める」とか「欲する」とかいう動詞が一方で「~がないのを嘆く」「欠く」になるのは,ちょっと立ち止まって考えればそういうことかと合点がいくが,日本語で考えているうちには二つの意味領域に連絡が見えにくかったりする.
de Vaanの語源辞書を引くと,Rixが,ラテン語のsidusやギリシア語のἰθύς「まっすぐな」の元には印欧祖語の*seHdʰ- 'to achive a goal'があり,considerareは'to concentrate on a goal', desiderareは'to come off a goal'の意味になるのだろうと考えたらしく,Nymanという人は更に考えを進めてイタリック祖語として*sīþos 'mark, target'なるものを出発点として置き,上記の動詞が猟師たちのジャーゴンに由来するとして,considerare='to direct one's missile', desiderare < *dē-sīdes- =mark-less, missing the mark''という流れを考えているらしい.Nymanさんは'mark, target'が'star'に意味的に移るパラレルをフィンランド語から引いているらしいが,印欧語の話をしているところでフィンランド語がどれほど参考になるのか怪しい気もするね.
Nyman, M. (1990), Hits and misses: Lat. considerare and desiderare. HS 103, 51-68. という論文らしいので機会があれば見てみよう.
Ernout & Meilletの方も眺めていたら,古代人(古辞書)でsidusとconsiderare, desiderareの関連付けをしている箇所を引いてくれているので,言語学プロパーでなしに文学畑の人にはまだまだ使いよい辞書だなぁと思った.
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「本書は、ロシアの世界的権威が、スターリンに直接由来する文書館史資料に可能な限り基づきつつ執筆した、最初にして第一級のスターリン伝だ。20世紀を代表する独裁者スターリンの軌跡を辿ることで、それと不可分のソヴィエト・ロシア史および世界史をきちんと把握できる、まさに現代史研究の「基本図書」となるものだ。」
スターリン オレーク・V・フレヴニューク(著/文) - 白水社 | 版元ドットコム https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784560098509
『スーパーカブ』面白いんだけど,おじさんの女子高生化という趣が回を重ねるごとにどんどん強まっていく
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