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反差別の人と反差別の人が争ってるぽいのが目に入ってきて悲しいんだけど、私自身、「反差別」を標榜してるからと言ってみんながみんなざっくり同じ「味方陣営」だとかは全然思えないタイプの奴なので、人間と人間だからまあそういうこともあるよなと思うし、ここ数年で大小様々な分断が可視化されてることや自分自身の不真面目さや正しくなさを自覚したことによってマイノリティ同士の「連帯」にもあんまり希望が持てなくなってるんだよな…
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比喩表現に限らず、「こういう時にするべき反応はこれ」っていうのがムラの中で決まってて、それをその通りに実行してさえいれば「正しく」いられるみたいな考えはどのムラであっても危うさしかないよなと思う
私も以前は「正しい」とされていることをたとえ理解できてなくてもポーズだけでもやっていれば本当の正しさはあとからついてくるだろうとか思ってたけど、やっぱそれってめちゃくちゃ危ういんだよな……
行き着く先は激詰めする人の世界観ていうか……。正しさの激詰めって、正しくない相手の意思を考慮も尊重もしてないからしたくもないしされたくもないよ…これは私が正しくない人間だからそう思うんだろうけど
あまりに良くない場面で使われがちな「特定のワード」を使用した瞬間、その言葉が出るに至った文脈も背景も為人も人間関係も全部無視してその言葉の正しくなさだけ(もしくはそこを起点とした「正しくなさ」)を激詰めするケース、非常に厳しいと感じる
理想も正しさも絶対に必要かつ正しさというものが今は全く足りてないとも思っているので「正しさ」や「正義」を腐したいわけでは全然ないんだけど、それでももう少し、それぞれ心を持った自分とは別の「人間」を相手にした時の対応をいちいち考えてやっていくべきなんだよな…みたいな話…
言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASS8V026WS8VUPQJ006M.html
たとえば少し前に読んだこの記事の「正義」という言葉の使われ方には正直「雑だしちょっと不正確では?」とか思ったものの、語られてる話の内容には個人的に頷ける部分も結構あって、まあそういうやり方もありだよねと思って周りを見てみたら、多くの人たちが「正しくなさ」にずっとめちゃくちゃ怒っていて、きちんと正しい人たちと自分のような奴では見ている世界がだいぶ違うのかもな〜と思って勝手に分断を感じるなどした
「その単語を使った瞬間アウト」というのは無くはないんだけど、これに関してはなんかこうあまりにもアウト判定からのみんなの怒りが早い&激しくて「そうなんだ………」てなってた