新丸の内ビルにメキシコ料理食べに #Qiitadon
#非中央集権型 の重要
性、#GNUSocial 、#Mastodon や#Pleroma と言っても、政治に興味のない人に三権分立や政党の話をしているようなものだと感じた。
やはり認知されるにはブランディングは必要で、各々のインスタンスは頑張ってたとしても、#分散型SNS としての総意でのブランディングがないし、あるわきゃない。例えば、twitter やFBアイコンと並ぶ 汎用のアイコン といったもの。
つまり、トランプ大統領に投票したり、レコード大賞や紅白に疑問を持たないような、圧倒的な層に認知させるくらいのわかりやすさが必要で、逆にそれらを求めるユーザーは向かない世界なのである。
「弊社のCMSはWordPressと知らずに使う」くらいのゆるい時間が必要なんじゃないかな。
とりあえず、その出版の人には、他社(他者)に発言を制限されるのではなく自分たちでコントロールしたかったら、アメブロなどから WordPress に社内ブログを移したように#マストドン や
Pleroma を始めたら良い とは言った。
#言語レベルでの責任転嫁 というのがあります。
例えば、メキシコでは#メイド さんは(昔の女中よりはハウスキーパー程度の)職業として割と一般的で、メイドさんがメイドを雇って仕事にでかけるとか普通にあり、日本のそれとは色々と違く、ダスキンに定期で掃除を頼むくらいの感覚です。
そんなメイドさんが、コップを落として割ったとします。
スペイン語では「Se cayó」(セ・カヨ↑)と表現します。
直訳すると「落ちましたYO」なのですが、主語が抜けているので「コップが落ちますた」の意です。
問題は人称で、それが抜けているため「なんか知らんけどコップが落ちました」という意味になります。他人事風です。
つまり、「落としてしまいました」という表現をするには、「Se me cayó」と「私から落ちました」という明確な表現をしなければなりません。
メキシコも裁判国家なので、この表現をすると非を認めたことになり賠償が発生したりするため、自分が落としたのに無意識に責任転嫁するメンタル思考があります。工場とか。
大陸ではこういう思考は多い気がするけど、言語を超えた時はブラックな社会ということ。