「この世に寝るほど楽あろか、起きて働くたわけ者」
苦労人だった祖母がよく言っていた言葉、すこ。
わし、思うんだけど、メールって手紙の延長だと思っているので、ある程度内容のあるまとまったやり取りをするものだと思う。
数回の往復で要件も終わるような。
でもメールで細かな応答すると、なにがなんだかわからなくなるので、なんというか、こう、ZoomとかSlackとかさぁ、、、と思うなどする。
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わたしゃ仕事がどれだけ上手くいっても、それを人生の豊かさの一部にできなかったタイプですなぁ。
褒められても責任のある立場になっても、常にどこか猛烈な違和感を感じてしまって。
社会性がないのだろう。うーむ、遺伝子ィ
多くの人が仕事で忙しすぎるんだよな。
お金にならないことまでやってる余裕がない。しかしそういう余白も必要なんだけど。
FediverseはSNSがそういう余白としてうまく機能してる人が多い印象。
一方、Xはコロッセオ。殺し合いを見て煽って、鬱憤を発散してる人がたくさん。
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ケセン語訳新約聖書もよいですよ。
岩手県気仙(けせん)地方の方言に訳された聖書。ここで読めますし、発売もされている。
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斧の歴史はスウェーデンの世界的斧メーカーであるグレンスフォシュ社が、詳しく自社サイトにまとめています。
おもしろいよ。
https://www.gransforsbruk.com/en/axe-knowledge/the-history-of-the-axe/
イラストで斧を描く時
斧を描く時、「斧頭(ふとう)」と呼ばれる部位がないものを描かれる方もおられます。
実際、中世や古代は伐採用の斧は斧頭なしが多数だったのですが、近代に北米で「斧頭」を重くしてバランスをとりやすくした方が安全かつ強力ななことがわかり、現代の斧の多数派となりました。
なので現代の斧を描くときは、斧頭を描くと私が喜びます。中世や古代は斧頭がない方が趣きがあっていいですね、フランキスカとか。かしこ
この🟦枠部分が斧頭。
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この規定のせいで、イラクの邦人監禁事件で人質返還交渉の際に交渉を有利に運ぶためムスリムになったアントニオ猪木さんは、やめるにやめられなくなりその後ずっとムスリムでした。
好きな豚が食えないのでつらいのでムスリム辞めたいと指導者に相談したら「それなら斬首だが良いのか?」と言われ、生涯モハメッド・フセイン・イノキとして生きた。
なんか好きなエピソード。
QT: https://fedibird.com/@utan/114034191314438806 [参照]
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ミステリアスさが減る。
やっぱりさぁ、こう、なんか見えそうで見えない、分かりそうで分からない、そういう人間の要素がさぁ、それがさぁ、いいんじゃあないか.....(康一くん風
あとこう、若干親しくなってからそっと開示されるのがさぁ、このなんというか、授業中に手紙をやりとりするみたいなさぁ、胸キュンがさぁ、いいんじゃあないか.....!
※上記のキモ感情を垂れ流しているのは、今年36歳のおっさんです
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自分の絶好調な時が365日続けば、自分は政治家や企業経営者になって成功できると思う。
上記は双極的な病的な思考だが、まぁ、やはり私も若干思う。
資格を持ったカウンセラーは、スーパービジョンや症例研究などで先達からボコボコにされることがよくあるので、早めに「自分のやっていることは美しいことではない」と気付きやすいのでいいですね。
当事者カウンセリングには「まぁ、クライアントを2、3人殺したあたりで、自分のやってることは美しいことではないことに気づきなよ」とよく思っている。
それでもなお、必要なことならやればいい。
美しい自分が美しいことをしてるという思い込みは捨てた上で。
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ムスリム、棄教が存在することを前提にされた設計ではないので、本気でムスリムになりムスリム共同体にも認められた上で、本気で棄教するとなると死刑の危険あるよ。
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信仰の現場でも「A級品の自分じゃないと愛してもらえない」と頑張る人も多い。
まぁ、頑張ってそうなれればいいけど、なれないとつらい。自分の価値を証明できず、その場にいられなくなったり。
「たとえB級品、C級品でも、神さまは自分のつくったものを慈しんで愛してくれる」と思ってる人は、けっこうしぶとく柔軟に生きる。
後者の戦略がすこ。
体調悪くて午前休みました。
神さま、なぜあなたは僕をこのようにお造りになられたのですか?
神さま「どんな生産ラインでも一定数の不良品は出る」
あーめん
これからの時代は自分で取ったドメイン使ってメール運用する時代ですよ。もうこれはガチ。僕もそうしてる。
メールの受信が止まらないもんな。1秒に5通受信してる。金運も上昇し愛人もでき宝くじもあたった。2段落目から全部嘘。
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マーケティングは優れた戦略を育てるし、それなしに今の社会は回らないのだけれど、やはり利潤動機が根本にあるので利潤動機から距離を取りたい時にはマーケティングからも意識的に距離を取りますね。
私は宗教家なので、特にそう。
宗教とマーケティングが融合するとトランプになる。これはちょっとね。
私が使っているアウトドア系の言葉で、もっとも市場やマーケティングから遠い言葉は
「野糞」
である。
これは商品化が困難すぎる。なのですき。
じゃあ、自分のやってることを何と名づけるかというと、なるべく商業化が困難な言葉を選んで「歩く」を意識的に取り入れている。
『歩くと言う哲学』の影響もある。
ハイキングもトレッキングも、その市場があるのでマーケティングされた商品が連想されるが、「歩く」は単純すぎて市場から遠いので。
ウォーキングは別、市場もマーケティングもある。