#エスカレーターの片側空けを解消するアイデア
右側を空けがちな地域を想定しています。
逆の地域は脳内で逆にしてください。
誤解を招かないようにあえて書いておきます。
私は
「『風雲児たち』は間違ってる!否定しよう!」
と言いたいわけではありません。
わたしァあのマンガが大好きですんで。
問題があるならファンがフォローすればええやないのの精神なのです。
それが『識りたがり重豪』執筆の動機のひとつです。
つまりなにが言いたいかというと、マンガや小説など「物語」化されたものを事実だと考えるのはやめましょね、という話です。
なにやら AI が情報を汚染するっていうポストがホッテントリしていましたが、人間(作家)も情報を汚染するのです。娯楽とはそーゆーものです。
これのなにが問題かって、言うまでもなく『風雲児たち』なんですわ。
幕末を語るには関ヶ原からってぃうのは実に卓見でした。
が、基礎になっているその関ヶ原の情報が江戸時代の創作ベースなので、「薩摩・長州・土佐の恨み」が齟齬《そご》をきたしてしまうのです。とくに薩摩。
実際のところはよくわからないのであって、夜明けとともに乱戦になって、こりゃ敗色濃厚だわ脱出!脱出!って無我夢中で島津義弘が戦線を離脱したら、そこは関ヶ原の南で60名くらいになっちゃってた…という可能性も当然あるわけです。
するとどうなるか。
まず、関ヶ原は正午に決着した→決着まで動かなかった島津隊という誤解が生まれます。
次に
「島津が伊勢に脱出するには正面の東軍を突破しなければならない→ほならしたんでしょ、脱出してんだから」
となって…
→「合戦史上類を見ない正面への退却」という超解釈が誕生
しかし少しは当事者の書き残したものもあります。
薩摩の合戦参加者による史料によれば、合戦は正午ごろに決着がついたと。
そして、島津義弘が伊勢方面に脱出したというのも記録がありますです。手勢が60名に減っていたというのもリアルな数字で信用できます。
ウィキペディアにも関ヶ原の布陣図とかが載ってて我々はあれが「えらい先生が調査した成果がこの図なんだろう」と考えちゃうのですが、あれも江戸軍記をソースに明治の学者が図に起こしたもので、ようするにたいして信用できません。
>歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討する(2017)[PDF] http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=9342
#関ヶ原2024 が峠を過ぎたのでぼそっと言いますが、我々が慣れ親しんでいる「関ヶ原」は基本的に江戸時代の創作がベースであるという話。
問鉄砲も空弁当も動かなかった薩摩も創作で事実ではないのです。