ターナーコラボ素材の習作
ターナーコラボ素材の習作
https://assets.clip-studio.com/ja-jp/detail?id=2156051
これのカラーセットとブラシを使ったよ
昔美術部紹介用のでかい絵を描いたときも思ったんだけど俺は遠目に見るといい感じに見えるやつの方がうまい
緻密な描き込みとかひとつひとつのアイテムにフォーカスするのは苦手分野なんだろうな 大雑把だし…
置き画みたいなやつも、多分個々の物体を丁寧に描けるほど存在における物質の部分に興味を持ってないからうまく描けない(筆が乗らない)のかなあ、とか思っている ぼんやりとした全体とか文脈ばかり食べているねお前は
文脈食べ食べ妖怪だからめんどくせ〜〜〜と思ってもひとつづきの物語にする方が自己満足度は高くなるという呪縛を持っている
でも文脈食べ食べ妖怪だから情報量の少ない物語であっても”あるある”によって情報量を補完することができるならインスタントサティスファクションは得られる
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「家族のような信頼」という文言を見たが、信頼を抱く対象の例として家族が選ばれるのがいまいちよくわかってない
現実に存在するコミュニティの1単位であるのに、それに付随する絆というもののフィクション性が高すぎると思う そんなことないの?
なんか偶然同じコミュニティで生活することを強いられていただけで魂がつながってるとかそんなことは全然ないしそれでええのだけど、フィクションはこぞって家族を美しく描くものだから騙されたような気持ちというか
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ただかなりはるばる歩いてしまったので、労力と食べ物が釣り合わない結果となってしまった 駅近の店舗に行くべきだ
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戸籍上の名前とか姿形みたいなものが、「どうやらこれが私を指しているらしい」という認識のことがかなり多くて、初期から割とアイデンティティと乖離してがちだったんだなあというのを考えている
生成AIの絵を感情の面とか、価値の良し悪しとか、意図の有無とかで批判するのは上手くないと思う(そんなのはなんとでも言えるから) ドライに権利関係とかで喋った方がいいんじゃないかなあと思うんだが…
「生成AIの絵には人間が創るような意思がない」みたいなのを見ると、例外事例が多すぎて論理が荒い、となってモヤっちゃうからあ!
生成AIを使ったとしても、その出力された絵をたとえばシリーズにひとまとめにしたとき、そこには人間による創作の意図が乗るし、逆に人間がすべて手描きしたとしても、あえて意図を乗せないような偶然性に頼った芸術は作り得る 生成AIにまったく人間の手が入らなかったとしても鑑賞者との間に文脈が発生するならそこに意図が乗ることはある でしょ……
対外的な価値ではなく制作者が生み出したその過程(と自己との対話)こそが大事なのだ、というなら生成AIを使ってもその文脈は発生する 対外的な価値で言うなら手描きしてるのにまったく見向きもされない人は大勢いる 例外が多すぎるよう……
「権利的にクリアでない生成AIの類は、リスクも高いし倫理の在り方も定まってないから使わない方が良い」の立場です ぼくゎ。。。
外敵を設定した上で「仲間だったら価値を認めます」とするのが苦手なんだよな その”仲間”からたくさんの人がはじき出される未来が見える……ので……
あと生成AI的なものはデマにめっちゃ使えるので、法規制がロクにないまま使いまくるのは危険だとも思う
家族の絆、結局はコミュニケーションがちゃんと取れてるかに帰結し、そしてそれは恋人友人同僚隣人すべてに言えることなので、やはり家族というものが妙に精神的に安心したつながりを苦労しなくても得られるというイメージをつけられすぎている
相互に深い理解を示している”魂のつながり”と呼びたい2人を指して、「恋人ではなく家族のような信頼がある」と表現している人のことばを見たので……魂のつながりは魂がつながってることであって、家族になることではないのでは、という持論
家族のように信頼している関係である、という表現がピンとこないだけでしゅ……めんどくさいオタクやね……
信頼していることは信頼しているという意味で、”家族”はそのベン図に掠ってることもある、っていう ことじゃない…?
「この2人が主に恋愛感情に基づいた1対1の排他的、優先的な契約関係を結ぶことが想像できない」という視点で「恋愛関係になるとは想像できないな」みたいなのが最近多い
恋愛関係にはないが、恋愛関係によく見られる身体接触をする、恋愛感情があることを表明する、などは起こり得る、みたいなのもある
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ヤバい親エピソードが溢れても尚家族の絆という幻想は覇権を握っているので、不思議ではある 神話みたいなものなのかな
”疑似家族”という呼び方も、家族という形態が良いものである文脈を含んだエモ言葉って感じだし、なんか他に代替の言葉がうまく当てはめられないのかな 共同生活をするコミュニティに少しのエモエッセンスを混ぜたみたいなニュアンス