メギストリスの都E-3
各バージョンの最終決戦にはある共通の特徴があります(※1)。それはすべて神との戦いであるという点です。DQXの物語は神に対する超克の物語なのです。
我らの創りし子らは 未知なるものを求め
未踏なる地へ 向かわんと欲する
先へと進む心をもって 世に現れた
そのように生まれついた 彼らなれば
いかに禁じようと やがて 奈落の門へと至り
その先を 目指すことだろう……。(※2)
v2のラストダンジョンである悠久の回廊に置かれた書物『神のみことのり』の一節です。人を創った神自身も、やがて人が神を超えるだろうと予想していたことを示唆するものですが、その言葉は奈落の門をはるか越えたv5へとたどり着きます。
v3において神々は「調和」という思想を語りました。調和というのはつりあいであり、まとまりのことです。性質が違う物が一つに溶け合うことです。つまり差異は無化されます。そして無化できないものは排除されます。調和をアストルティアで最も強いチカラと言った時、そのアストルティアにナドラガンドと魔界は含まれていません。
それに対して、人が語った全く新しい思想がv5における「協調」です。それは異なる者が互いに協力するということです。差異は前提でありむしろ肯定されるのです。どちらがより広い世界を包括するチカラだったか、答えは既に明らかです。人は神が成し遂げられなかったことを成し遂げました。
ここでv6が始まります。ミトラーが語るのは神の偉大さです。求められるのは世界の守護者たる神。英雄には偉大なる神の力が与えられると(※3)。人は神を超えたのにどうして神のチカラが必要なのでしょうか。天使は既に最初から間違っていたのです。
かつてv6.3の前半と後半は同じ話であると指摘しました(※4)。レオーネはより優れた存在が人類に福音をもたらすと信じていましたが、これはミトラーが語った世界の守護者たる神と何ら変わりません。これが間違っているというのなら、そして前半と後半が同じ話だというのなら、当然ミトラーのやろうとしていることも間違っているという結論になります。
天使がこのような間違い、というより時代の変化について行けなかった理由の大きな要因は転生です。同じ魂が同じ場所をグルグル回っているということは、変化が起きづらいということでもあります。実際、天星郷がほとんど変化しない場所であることは方々で語られます。無為に同じ場所をグルグル回っている天使の存在(※5)は極めて象徴的です。転生に乏しい環境いるものは変化に対応することが出来なかったのです。神なきあとの世界においても神の残滓が世界を縛っていました。
※1例によってv1は除外する。ただしそれはシナリオ製作者が違うという理由によるものではない。そのような外部事情の持ち込みは慎重を要する。
※2 https://dq10books.wiki.fc2.com/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%82%8A
※3 v6.0「みそぎ」
※4 https://twitter.com/hisa_dq10_munou/status/1620145660501831680
※5写真2枚目を参照 https://social.vivaldi.net/@hisadq10munou/111171579541858898
世界の守護者たる神が必要であるという考えには、もう必要ないという理由以上に大きな問題があります。それはパターナリズムです。調和と並ぶもう一つの神の古き思想です。その根源はやはりv3に遡ります。
ナドラガンド大戦の発端はナドラガが、優れた竜族こそがすべての種族を総べるべきと主張し、争いになったことですが、この強い立場のものが弱いものの為と称して介入や干渉や支配を行うこと、これがパターナリズムです。思いやりや優しさなどが背景にあるのが重要なところです。エステラに対しナドラガが「愛しているに決まっている」(※6)と言ったのはこのことをよく表しています。問題は、それが本当に当人の為になっているのかということです。
そしてv6です。実のところ、英雄はこのナドラガととてもよく似た人たちでした。何かを愛し守りたいという気持ちを強く持っていた人たちです。だからこそ天使の計画に乗って神化の儀を受け入れたのです。しかし、結局うまくは行きませんでした。それはナドラガが破綻したのと同じことです。彼らは人を守りたいと思うあまりその人たちの意志というものを軽視し、省みなかったのです。思い通りにならないことで傷つき心の中に闇を抱えましたが、それはある意味当然のことです。思い通りにならないものまで思い通りにしようとしてしまったのですから。必要だったのは神のチカラではありません。神の古き思想であるパターナリズムを捨てることだったのです。
このように考えるなら英雄たちが消滅するのは必然です。彼らは悪神から戻る過程でそのパターナリズムが間違っていることを自覚しました。世界に神は必要ないということを理解したはずです。チカラを使い果たしたようには見えないリナーシェが消滅したのはこういう理由によります。つまり自らの意志で消えたのです。そしてフォステイルが生き残った理由もわかります。フォステイルは自分がやるべき仕事を他人に押しつけるようなキャラ(※7)なので神となってもパターナリズムとは無縁なのです。
最終決戦にラダ・ガートが参加したのは、ヒロインだからでもパートナーだからでもなく、神だからです。最初に述べたようにDQXの最終決戦は神との戦いです。その神が味方にいたということは、戦うべきものは味方の中にあるということであり、それは究極的には神からの解放というv6の物語を表現したものです(※8)。これがv6という物語の結論です。
※6 v3.5「竜を愛した者たち」
※7 762「薬師の天使は手を借りたい」
※8 ジア・クトとの戦いは神の因縁の最後の後始末という、神からの解放の物語である。
今こうやって見ると類似は明白なのに当時は気付かなかったなぁ。ジア・ルミナにそっくりって言うユーライザのセリフは見事なレッド・ヘリングだった。
とりあえず6.5後期の話はこれで終わりです。ありがとうございました。なにがありがたいのかわかりませんが