完全にショタコンの視点で描かれたおねショタいいわねー!
しかしこの騒動のおかげで、この期に及んでクソつまらん隣国嫌悪感情に支配されている人間が炙り出されて良い感じ
結局、小糸侑が「あちら側」に行ったのはどの時点だったのか。まだ私には掴みかねている。本巻は「あちら側」に行った小糸侑の答え合わせのようなもので、あまり導出の過程は含まれていないようだ。鳰先生の筆致をもってしも、その答えは私には遥か遠くのものに感じられてしまった。嗚呼、終わってしまった。私は答えに辿り着けなかった。
百合作品というのものを自分の地平と繋げて考えることは基本的にしないのだけど、この作品は別だった。自分の地平で自分の気持ちで理解しているつもりだった。最終巻でそれが。わからない。どうなったんだ。自分の気持ちがわからない。
何か自分のこれまでの体験を思い出して「ああ、僕は今まで手を掴んでも掴み続けられなかったんだな」という事を実感したというのが「やがて君になる」最終巻の感想です。
「それは選び取るという事だった」という小糸侑の出した答えがそのまま「お前は今までどれだけの人や機会を選び取れず繋ぎ止められずに突き放して来たんだ?」という致命的な詰問になって僕に突き刺さって苦悶しています。
きみが笑うと それだけでもう嬉しくて
すべてが 報われるんだ
うつむいてた日は ここから見てたのは ぬかるみ
でも今は 空を見上げてる
言われて気づいたけどUMB2013のモエル対ドタの延長良いなこれ。前の組み合わせのビートが紫煙な事に気を取られすぎていた。
⚠️ #Mastodon v3.1.2 is out with an important security fix:
https://github.com/tootsuite/mastodon/releases/tag/v3.1.2
Likewise, v3.0.2 and v2.9.4 have been released to port this fix to older versions.
適切な代替案は思い浮かばないがそれでも死刑をするべきではなくて、なぜかというと死刑を容認する事は人間を「殺して良い人間」と「殺すべきではない人間」という彼我に分けて差別するという事を避けることができないから。
あたかもトロッコ問題のように「彼を殺さなければ別の人間が必ず死ぬ」という状況下でのみ「誰であろうと誰も殺すべきではない」というお題目を守ることが叶わなくなる。が、死刑執行が可能なケースでは彼はすでに捕まっているはずでありそのようなジレンマにはあたらない。
ちなみに「死刑の存在がもたらす犯罪の抑止効果」についてはどうでもいい。実際に犯罪の抑止効果があったとして、そのために何をやっても許されるかというとそれは違う。
シューベルトの即興曲D.899-3はフジコ・ヘミングの演奏がダントツで好きなんだけど、なぜかといえば母の演奏に近いからなんですね。それ以上の理由がない。
僕はヤンデレという概念がキライで、というか少なくともメンヘラとは全然関係のないものだと思っている。メンヘラというのはもっとずっと遥かにどうしようもないクソだし、なにより「自ら滅びようとするものが断末魔とともに放つ眩しい光のようなもの」が感じられない。