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いつもの踏切

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重要

twitter.com/gamayauber01/statu
「主語がデカい」と否定的に述べる人が多いことで端的に判るように、日本語は30年ほど前から社会について「一般化」の能力を失っている。

欧米は、と欧州もアメリカも一緒くたの一般化ですんでしまうこともあるし、「アルプス以北の欧州は」くらいまで限定しなくては、うまく性質の一般化ができないこともある。

「アジア人は」で、くくれることは稀かな?
東アジアは、でも難しい事もある。

同様に、日本は、でも無理で、関西人は、と限定しなくては一般化出来ないことも多いでしょう。

つまりこういう「一般化」の能力は、高い洞察力と「なにが共通しているか」という夾雑の捨象能力を必要とするわけで、個々の社会への参加者が社会について考えるためには、どうしても欠かせない能力です。

その「一般性を抽象して把握する能力」を喪ったせいで、日本の社会は批評軸を喪って、さらに、その結果として社会を認識する能力を失ってしまっている。

この30年、日本が凋落しつづけているおおきな理由だとおもいます。

そのうえに「主語がデカい」という「出羽の守」族の語彙を生みだして居直ることまで憶えてしまったので、遠くから見ていて、「これでは立ち直るまで、まだだいぶん時間がかかるかな?」と、淋しい気持ちになる。

もしかしたら、「日本文明」どころか、日本文化さえ、翻訳者や紹介者たちがつくりあげた砂上の楼閣だった、ということになってゆくのかもしれません。