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日本で、つか本州で、か

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ほーたしかに
日本で千葉だけ熊が居ないんや

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ほー

本州唯一「クマなし県」千葉なぜ 全国で被害相次ぐ 地理的条件要因か 一安心?将来的にもリスク低く 県立中央博物館下稲葉研究員 | 千葉日報オンライン chibanippo.co.jp/news/local/11

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この「(と私は思う)」の重さよ
かっこええ

>それは、無差別に向社会性を発揮するという極限的な愛の表現であり、神はヒトの向社会性を理想化してうち固めたもの、つまり向社会性の実体化、あるいは利他性の人格化、と考えてよい(と私は思う)のです。

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スルィリングな

>神と向社会性は、通常、関連しない。誰かが神とは向社会性の実体化であると言うのを、聞いたり読んだりした記憶はありません(が、いないとはかぎりません)。田川建三訳註の新約聖書やニーグレン『アガペーとエロース』を読んでいるときに、突然浮かんできた連想です。イエスの語る神は、向社会性の権化です。

2023-11-11 14:17:10 まめむみこの投稿 mamemumiko@vivaldi.net
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2023-11-11 14:15:30 ミᤖ゙𐨬ォッባᤖの投稿 mizufox@fedibird.com
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おもしれー
>思いつきをひとつ記しておくと、自分の理想に対する自分の応答(response)の帰結を引き受けることが、“responsibility”(「応答能力、責任」)なんじゃないか。だから、「自由には責任が伴う」という決まり文句は、西洋思想の文脈で言うと、第一義的には、自分の理想に対する自分の応答の帰結を自分がすべて引き受けることを意味するはずです。けっして、自分の自由な振る舞いが他の人々に及ぼす影響を引き受ける(つまり、他人の迷惑を考慮して自制する)という意味ではないだろう。というのも、この文脈では、個人は他の人々に対して応答(response)しているわけではないからです。したがって、他の人々との関係において応答能力(responsibility 責任)を問われる筋合いはない。近代的個人は、まずもって、自分と理想との関係において応答能力を問われるのです。

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>個人の愛と自由が近代社会を作ったという話は、現行の規範を拒絶して理想を目指すはたらきが近代を作ったということです。これは、革命が近代を作ったと言うに等しい。そしてたしかに、近代は、宗教と科学と政治の革命のなかから姿を現した。どの革命も血塗れの物語に満ちている。まったく〝きれいごと〟どころではありません。アガペーとしての愛には、現状を否定し理想を目指す促しが組み込まれています。その帰結として、アガペー的な人間関係は、本質的に、峻厳で非情な側面を備えることになる。前回は、いわゆる〝毒親〟との関係をどうするかという卑近な例を使って、その点に少し触れました。

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>とはいえ〝ありふれた話〟が、わかりやすく、受け入れやすい話であるわけではない。まして、人間性の肯定的な側面だけを大写しにした〝きれいごと〟というわけでもない。アガペー(愛)が社会を形成するとは、なるほど個人の愛と自由が社会を作るという話ではあるけれど、別の角度から見ると、これは、〈社会を拒絶する自由によって社会を作る〉ということです。こう言いかえると、アガペー(愛)には一種の矛盾が潜んでいることがわかります。

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いっこ前のこれもおもしれーぞ
note.com/chikurin_8th/n/n40dd9

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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の24]|tetsujin
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ツマラン…

​:sukedati_itasu__i:​

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twitter.com/gamayauber01/statu
戦前の日本を観れば判るとおり軍事は、時に、政治の頭越しに発火する

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それは思うな

近代を持ったことがない俺たち日本語人が脱近代とか、チャンチャラ可笑しいわ
というのは思ってたずっと

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>ここから、日本語人が本質的に抱えている問題は、近代と脱近代の葛藤ではない、ということが判明します。キャッチフレーズっぽく言うと、ポストモダンは我々の問題ではないのです。平明に言うと、神の立ち去ったあとの世界でいかに生きるか、という問いは我々の問題ではない。我々は、神が最初からいない世界でいかに〝近代っぽく〟生きるか、という全然別種の難題を抱え込んでいる。

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そうだったのか…

>本ブログの全体の関心は、絶対(神 God 、実体 substance)への眼差しを元々もたない日本語人が、近代化を試みると、そこで何が起こるのか、ということだった

note.com/chikurin_8th/n/nab752

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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の25]|tetsujin
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ウクライナ人たちは「世界は、もう私達の運命に興味を持っていない」と嘆いている。

娘を殺されたイスラエルの母親がイスラエルに復讐を許さない世界の人間に対して怒りをぶちまけている。

パレスティナ人の両親がイスラエル軍に殺された幼い子供の遺体を抱いて壁を叩いて嘆き悲しんでいる。

イスラエルでもパレスティナでも、知識人たちは世界が無関心でいたから、こうなってしまったのだ、と世界の人間の自分たちへの無関心に絶望している。

パレスティナやウクライナは報道されるだけマシだ、と、父親が生きながら燃やされて殺されたミャンマー人が索漠とした表情で言う。

ミャンマーの軍がやっていることを、虐殺を、あなたは知っているか?

日本のような国は、未だにミャンマーの軍政府を支持して虐殺を助長しているのを、日本の人たちは判っているのだろうか?

真実はどこにあるのか。

真実は、世界の位相が変わってしまっているのではないか。

悲劇が存在しない世界には、喜劇も存在することが出来ない。

坦々と死の羅列を叙述するか、感情を爆発させて、
自分が正義漢になった興奮を清涼飲料水のように飲み干して、すっきりした気持ちで明日は会社に出かけるのか。

この世界は富者だけが人間になりつつある。
この世界は富める国だけのリーグになりつつある。

それがどれほど恐ろしい時代か、きみやぼくは、ようやっと目撃しはじめただけなのでしょう。

村八分というが、世界のなかで疎外された国は、存在が許されなくなっていく。

なんという荒涼とした場所へ、世界は流されてきたのだろう。

慌てて5年後も生き延びていられる道を探す人間の群れに、きみ自身が加わっていない保証はなにもないのかも

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言うの遅かったが、科学的に妥当なことをちゃんと言う、というのは、大事よね。

「日本に核のごみ処分場の適地ない」専門家が語る理由 | 環境エネルギー最前線 | 川口雅浩 | 毎日新聞「経済プレミア」 mainichi.jp/premier/business/a

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「日本に核のごみ処分場の適地ない」専門家が語る理由 | 環境エネルギー最前線 | 川口雅浩 | 毎日新聞「経済プレミア」
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練馬に帰ってきた

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吉祥寺

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