「預かり物だよ」
ギターのハードケースを引きずるようにして楽屋からよぼよぼと退出してきたファングを引き止めた。今日は調子が悪そうだった。楽屋の隅にうずくまっていても別に邪魔ではないんだけど、ファングは律義に、自分の出番が終わったらすみやかに楽器を片して楽屋を空けた。
今日はほかの出演者はHC系のバンドで、後ろから二番目のファングだけギターの弾き語りで出演していた。ギターを抱えてステージに顔を出して早々に、『きょうはおれ元気ない日だから、座ってるし、リクエストもなしで、ちょっとやってすぐ帰るから……』としどろもどろに言って、この世の掃きだめのようなブルース? フォーク? を小休憩もなしに弾いていた。
『外は隕石で土砂降りの雨……』
水も飲まずガサガサに渇いていく声には命を削る異様な迫力があり、ほかのバンドを見ているときには手を掲げたりジャンプしていたお客さんたちは、死にかけの病人の遺言でも聴くような心地でファングのどん底の歌を傾聴していた。
バーカウンターの高い椅子になんとか腰を下ろしたファングに、水と、今日のギャラを入れた封筒を手渡した。うつむいて封筒の中身の金額を確かめているファングに、「預かり物だよ」とカウンターの下に置いておいた荷物を渡した。どこの店だか知らないけれど、高そうな洋菓子屋さんのかわいい紙袋だ。
「おっ、バレンタインデープレゼントか?」
ファングの不調には慣れっこの店長が後ろからはやしたてた。カウンターの周りにたむろしていた常連の年長の男たちもファングを小突いて、お前にも春が来たなとか、他所でも貰ってんのか〜? とか、口々に声をかけた。
ファングは黙って紙袋をしげしげと見ていた。
俯いて全然顔の見えないファングのことを俺は見ていた。俺にはなんて言ったらいいのか分からなかった。
*
昼間、といっても夕方、ヒサシに会った。
俺は店の買い出しに出たところで、高円寺の駅の改札を通りすがりに、ヒサシが改札を抜けて帰ってくるところに出会した。無視をするには互いに無理があるぐらいハッキリ目が合ってしまって、立ち話をしないほうが不自然な間合いだったので、互いにちょっと挨拶して立ち止まらざるを得なかった。
ヒサシは左手に新宿のデパートの大きな袋をたくさん抱えて、スーツみたいな格好良い黒い上着を羽織っていて、小さな革のカバンを持ったきれいな女の子を連れていて、右手で彼女と指をからめていた。
「よ、帰ってきたところ?」みたいなことを俺が訊いて、「だぁれ?」みたいなことを彼女が訊いて、俺は繋いでいる手に目を落として、ヒサシは「友達だよ」と囁いた。彼女に対して俺の紹介をしたはずなのに、俺にも彼女のことを「友達だよ」と紹介されたような気分になった。そうだとしたら、それはちょっと無理がある。
ヒサシは「謙太、きょう仕事(シフト)なんだ」と分かり切ったことで声をかけた。
「うん。きょう、ファングも出るんだけど……」そこまで声をかけて、分かり切ったことだったな、と俺は話を切り上げた。「まあ、ヒサシ、きょうは来ないよな」
うん。分かり切ったことだった。
じゃ、また。
そんなふうに歯切れ悪く俺たちは別れた。
なんでヒサシが手を繋いでいたことにショックを受けたのか分からない。商店街のアーケードを飾るピンクのハートマークに、きょうになってはじめて気付いて、ジャンパーにつっこんだ自分の手を強く握った。
それから店を開けて、入ってくるお客さんをさばいて、特にちゃんと集計しているわけでなくても「お目当ては?」とお客さんに訊くと、きょうも「ファング」と答える人がいる。弾き語りの日もバンド編成の日も必ずひとりはそう答える。バンドの日の俺はちょっと照れもするんだけど、お客さんが聴きに来るのは俺じゃなくてファングなのはわきまえている。でも、弾き語りの日にも「ファング」と答える人がいるのは自分のことみたいに嬉しい。
最初のバンドの開演時間になって、入場が落ち着きそうだったので店内に戻ろうとしたら、もうひとりお客さんが遅れてやってきた。
予約の名前を聞いて、お金をもらって、「お目当ては?」と尋ねて顔を上げると、お客さんは違うことを答えた。
「あの、出演者の方に、プレゼントできますか」
セーターにジーパン履きの髪の短い女の子が紙袋を差し出した。
ドアの隙間から最初のバンドの歌が漏れて聞こえてきた。
「ファングの、木場さんに」
蚊の鳴くような細い声だった。
出演者への差し入れは時々受け取るけれど、俺は一瞬固まってしまった。紙袋の持ち手はリボンで封じられていて、お店の人じゃなくて自分で結んだんだろうなっていう垂れたリボンが揺れていた。
「ちょっとしたら、もうすぐあいつ来ますよ? 直接渡したほうが喜ぶんじゃないかな」
提案してから、彼女の顔を見て、いまのは失言だったと反省した。
彼女は首を振った。「渡してくれたら、それでいいんです」
*
「きょうはおれ元気ない日だから、座ってるし、リクエストもなしで、ちょっとやってすぐ帰るから」
はじめて彼のパフォーマンスを聴く人は面食らうファングの瀕死の挨拶を俺はバーカウンターの内側から聴いていた。
彼女のことは見失った。そもそも、ステージのファングも客席(フロア)の様子も、バーカウンターからはよく見えない。
死にかけのMCをしたあとで、ファングは毛玉だらけのカーディガンのポケットからピッチパイプを取り出して自分のギターをチューニングした。音叉やギターチューナーは使わなかった。それで、普通のチューニングやドロップDに慣れた俺やお客さんの耳には不思議に聴こえる構成音にチューニングして、左手はなんにも押さえずに弦を一度かき鳴らすと、ファングはたちまち今夜の支配者になった。
お目当ては? と尋ねられてファングと答える人たちに、彼は歌を聴かせてやる。
ブルースとフォークとロックの垣根を破壊しながら、ファングは喉を潰して歌う。ファングでなければならない人たちのために。
このハコの外の世界に隕石の雨が降り注ぎますように。破滅の祈りを皆が聴いている、彼女も、俺も、お目当ての歌を聴いている。
持ち時間をすべて歌に使い切ったあと、拍手も待たずにただ「おしまい」と言ってファングはそそくさとステージをはけ、バーカウンターの椅子に腰掛けて頭を垂れた。
「預かり物だよ」と渡したプレゼントを皆がはやしたてても全く意に介せず、ファングは黙って紙袋を見ていた。俯いた長い髪で全然顔の見えないファングだったけど、俺には為す術なくただ困っているように見えた。迷惑というのではなく、異国語で書かれたラブレターがまったく読めなくて悲しんでいるみたいだった。
背中を丸めたファングの後ろにあの人が通っていくのを俺は見た。彼女は俺にしかわからないぐらい小さく会釈して、俺もおんなじように応えた。彼女はそのまま人混みにまぎれて出ていった。
ファングは紙袋のリボンを解かずに、抱き寄せるように膝に抱えて乗せた。
俺にはなんて言ったらいいのか分からなかった。
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小説『ファング』 スピンオフ短編
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