バサラ半兵衛が突出しておかしいんだろうなと思ってたらそれどころじゃなかった つかレゴラスがいるぞ>RT
頼長は「蘇みたいに獣の乳腐らせて作ってるような怪しげなもん食うなど道理に反する」とか小理屈こねといて実は単なる好き嫌いというイメージ>RT
1177年は新暦と旧暦で27日ズレてるので、安元3年6月1日は新暦でいうと6月28日 今頃は白山事件の真っ只中で西光イライラの局地
考えてみたら白山事件から鹿ヶ谷の陰謀発覚まで2ヶ月くらいなんだね この間に大火事もあったみたいだし、世の中ひっくり返りすぎて当時の人らは呪いか祟りとしか思えなかったろうな
@shiro_ka1059 そのころの東国だと佐殿を雨のなか庭にほり出して太刀を突きつけるプレイが見ごろですね
※※お客様におしらせ※※ 清盛殿に憎しみを抱いている院近臣の皆様は、五月末に鹿ヶ谷山荘にお越しください #愛と陰謀の鹿ヶ谷まつり2014
なんやかや言ってるわたくしですが、お家さん見るまで鈴木商店の名前すら知らなかったんだ 知らないことに気付かないんだから焼き討ち暴徒と同レベル #お家さん
鈴木商店物語がそこらのフィクション蹴散らす勢いでドラマティック taiyokoko.co.jp/booklet/suzuki…
ドラマ中では岩治郎が奉公人を粗雑に扱ってましたが、本来商家の奉公人は家族並みに大事にされていて、丁稚として預かった子供には読み書きそろばん行儀作法、果てはお茶に生花花嫁修業まで施されていました 我が子としてどこに出しても恥ずかしくないよう育てるのが務めであり当然のことだったそう
なーんも知らない子供を一から商人に育て上げるのは当時でもものすごく高コストだったんです それでも商家は教育の重要性をよく知っていた 丁稚たちのうち「使える」人間は店に残って盛り立ててくれれば良し、残念ながら店を離れた子も商いのイロハさえ知っていれば他所で雇って貰えて食うに困らない
丁稚どんたちがほぼ無給で働いていたのは、働きながら学べて飯まで付いてくるという現物支給的な待遇だから 商業学校も真っ青の超実践教育で帳面付けから物流の仕組みにお客様とのやり取りまで数年間でバリバリと仕込まれるわけです
だから「松下幸之助や直どんは丁稚から登りつめて学歴ないのに金儲け云々」というのは半分間違いで、丁稚上がりというのは幼少のみぎりから商売の英才教育を骨の髄まで受けて純粋培養されたようなもんで、現代の学卒とは比べものにならないくらい知識も経験も豊富だったんです
だからと言って丁稚がみんな番頭まで出世できるわけでなし、奉公人の大半は途中で店を変わったり郷に帰ったり、下働きで一生終えたりしてました ちなみに転職はかなり自由だったとか
ところで清盛んとき時代考証の件で衣装がセットがと指摘なさっていた方々は、今年のノブ様のお部屋(悪魔城ドラキュラ仕様)をご覧になって何を思うのか
監禁中の官兵衛をワイプで中継って、信長がゴージャス部屋でワイン片手にキレてたり黒田家が若殿不在でプルプルしてたりする斜め下あたりに死にかけの蝉みたいに弱ってるかんべちゃんを常駐させるってことか
せっかくだから監禁中で死にかけのかんべちゃんが外界の戦況をモニタで確認しながら「あかん…あかんて…」って弱々しくツッコミ入れるワイプが見たい