と、思うので清峰葉流火が「圭は圭だろ」と言うのがありがたいという話であった
要圭のアレって別人格が元々主人格だったやつだったという点においては、いわゆる「キャラ変」の強烈版みたいなところある気がしててそこに同一性とか連続性を全く見いだせないわけがないだろみたいな何かこう……
思うに、主の要さんが智の要さんに追いついたのは割と人格同士の差異が小さくなってる証だとすると、今のこの状況は要さんが記憶喪失を経て一から(半端ない下駄は履いてるが)野球の楽しさを思いだしてそれを実感してるところとすることもできるわけよ……
解離性同一性障害の治癒後の当人や周囲の感覚って想像つかんな……そもそも治すっていってもどのラインを完治と設定するのか……