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なろうとかカクヨムとかの投稿型Web小説サイトの小説を読んでいると、時折、これは作者がよく理解できてないんだろうな、とか、勘違いしてしまってるんだろうな、というのが感じられていたたまれない気持ちになることがある。書いてる本人は気づいてないのだろうし、指摘するのも無粋なので、そっとページを閉じて忘れることにしている。
例えば、極端な例で言うと、歴史のある王国で確固とした貴族制度もあるのに、無名の庶民が簡単に王に謁見できて、王と対等に話をしてしまうとか。王が気さくな人柄とか、そういう次元の話ではない。王制や階層社会というのはそういうんじゃないよね。ほかには、学生が書いた社会人や会社の風景には違和感が出まくるとか、貴族や富裕層のごちそうのはずなのに庶民の食事と大差ないとか。想像力だけで書くと、作者の想像が及ばないところは破綻しまくってしまう。
私も含めて文章を書くことで食べている人間は、そういう事態の姑息な回避には長けている、と思う。最上なのは自分の理解が十全なことのみを書くことだけど、小説などの創作ではそういうわけにもいかない。作者本人が下調べを十分にした上で、商業作家であれば編集者や校閲者のチェックを受けることができるけど、ここではそういう話をしたいわけではない。
栗本薫がグイン・サーガを書き始めたのはまだ20代のうちで、人生経験豊富とは言い難い。にもかかわらず、栗本作品では、描かれる世界に違和感を抱くことが、まずなかった。プロとアマの違い、と言ってしまえばそれまでだけど、なぜそれがプロにはできるのかをずっと考えてる。編集や校閲の存在を除外すれば、おそらく、書物や映像作品を通して得た知識と理解を、内面に再構築した世界へと、きわめて高い整合性ときめ細かな解像度でもって展開できるからなのだろうな。私には無理