最も多く翻訳された著作物の一覧のページがあった
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E3%82%82%E5%A4%9A%E3%81%8F%E7%BF%BB%E8%A8%B3%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%91%97%E4%BD%9C%E7%89%A9%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
最も多く翻訳された著作物の一覧のページがあった
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和訳1つしかないと選択肢ないんだが複数あると一番好みのやつで読みたくなり、図書館で全部見比べるはめになる。
川は、純白に輝き、雪野原のように眩しかった。(2018)
ひときわ白いその流れは、雪のようにまぶしい。(1971)
眞白く、それが雪の原のやうに眼を射る。(1940)
(フロベールのヘロディアス)
これ1940年のが一番好きで、だって眼を射るんだぞ!!てなる。あの雪見たとき眼の奥痛くなる感じが完全に再生される。
でも1940年のが好きだな!て思うだけでそれ以上はなにもない。まじでキリがない
さやかちゃん包帯ぐるぐるでもさやかちゃん好きはアリアリのアリとなっていて単なる中二病かもしれない説もそれはそれでアリなのさすが
次これ読もうと思っているが装丁がめちゃくちゃ良くないか。あとタイトルが直球
ジュリアン・グラック『陰鬱な美青年』
http://www.bunyu-sha.jp/books/detail_beau.html
たまたま別で見ていたページ、芭蕉布きれいね
🎨 美術館「えき」KYOTO 芭蕉布 人間国宝・平良敏子と喜如嘉の手仕事
https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/8997
https://kyoto.wjr-isetan.co.jp/museum/exhibition_2308.html
2023/09/09~2023/10/29
#美術館
隠遁生活展の参考文献にあった本。白楽天(白居易)とか鴨長明とかの隠遁に至ったいきさつや、庵の想像図が描かれていて良かった。
展示の解説にあった、隠遁者は現実逃避ではなく妥協して世俗で生きるより理想を求めて隠遁したのだの意味がなんとなくわかった。もともと役人だったが金や地位争いに疲れてとか、謀られて左遷されてとかがきっかけで、そんな風に生きるくらいなら貧乏でも自然に囲まれて心安らかに暮らそうってなったのだなあ。
でも途中出てきた嵆康の「七不堪」(七つの我慢できないこと)が、ぐぐってみるとちょっと笑った。
朝早く起きたくない・山歩きしたいのに部下がいてできない・正座したくない・礼服を着たくない・上役に挨拶したくない・公の文章書きたくない・葬式でお悔やみ言いたくない・俗人と同僚でいたくない・忙しいのが嫌だ・トイレ行くのもめんどくさい・半月髪洗わない…など(七つ超えてる気がするが)
いやこれ役人向いてないとかじゃなくて皆そうじゃねと思ったが、現代人が昔の役人みたいな仕事になっているのか?
他に気に入ったワード
陶淵明 歸思(帰りたい)※故郷に、という詩でだが
白楽天 身閑自為貴(世の中に暇なほど貴いことはあるまい)
でも陶淵明はえらくて、役人はすぐ辞める繰り返しだったが野良仕事は自ら好んでやっていたようで「束帯候鳴鶏(野良着を着て一番鶏が鳴くのを待つ)」とかもあった。えらい。
松尾芭蕉の庵は、思ったより南国だった。芭蕉芭蕉している。
芭蕉翁絵詞伝 ↓のp.13
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100076695/13?ln=ja
この芭蕉の木気に入って、旅の後に戻ってきた後に住んだ家にも移し植えたらしい。
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
という句が良かった。強い雨風が芭蕉の木にうちつける音と、庵内の雨漏りを盥で受けている音がする様だそう。わびしいが、(尊敬する)杜甫がひとり暮らした雨漏りの庵と似ているかもしれないという気持ちもあるらしい。良い。
帰思(帰りたい)は使っていきたい。
#読書
なんとなく思うが、近ければ近い人ほど病気とか障害って些細な一要素に過ぎない気はする。
父方の祖父は大戦で大砲撃ちだったためものすごい耳遠かったけど、一声目に「へえっ!?」って聞き返してくるってキャラでしかなかったし、母方の祖母は統合失調症だったらしいが正直亡くなるまで(というか数年前まで)知らんかった。おばあちゃんいつもボーッとしてるんだから~くらいの印象でしかなかった。薬の影響だったかもしれない。違うかもしれないそれすら知らない。
小学校のクラスにいた知的障害あった子は、給食めっちゃ食うな!ってイメージの方が大きかったし、隣の盲学校の女の子はめちゃくちゃ走り幅跳び記録出しててすごかったし、教師にだけは絶対に口をきかない女の子はそういう子なんだなあとしか思っていなかった。遠くにいる方が腫れ物っぽくなっちゃうんだよねふしぎとね。
読もうと思ったまま読んでいなくて、なんとなく今だ!となったので読んだ。
見えている人(筆者)にとっては「仕事場までの経路の一部」と二次元的にしか捉えていなかった道について、見えない人(同行者)から三次元的に「いま山の斜面をおりているんですね」と言われて驚いたという話が良かった。
見える/見えないは大きいが、そもそも同じものでも把握の仕方ってかなり個人で違ったりするよなあ。
それをエンタメに変えている例がいくつか書かれていたが、「ソーシャル・ビュー」というのは知らなくて、あーこれは絶対面白いわと思った。
絵画とかを、見える人が「何が描かれているか」「どう受け取ったか」を挙げつつ、見えない人もまじえて話していくらしい。
「湖って言ってるけど野原なんじゃないの」とか「女性じゃなくて男性な可能性ないの」とかが、話しているうちにバンバン覆ったりするのだそう。
例えばマーク・ロスコという人の絵画 https://www.google.com/search?tbm=isch&q=%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B3 について、「シャケ弁を上から見たところ」と言う人もいれば「ポストの中に隠れていて外を見ている」と言う人もいて(すごい想像力だ)、それでやいのやいの話すらしい。絶対楽しい。
ダイアログ・イン・ザ・ダークについても載っていて、もう20年近く前にラジオで伊集院が話していて4~5回は行ったけど、これもすごい楽しくてな。
https://did.dialogue.or.jp/
まず一切が見えないことが異常に安心する。どれだけ普段人の顔とかを気にしているのだろうと思う。
旧赤坂小学校が会場だった時、喧騒っぽい音(音自体は録音素材)が聞こえる場所があって、そこで完全に渡り廊下の風景を見た(見てないんだが)そのとき脳に広がった渡り廊下、今でも思い出せる。見てないんだが。
ブラインドサッカーの話も馬鹿力で聞いた。視覚以外の情報フル活用して距離・方向を教え合いながらゴール目指すっていうの、完全に別競技として面白いよね。
レトルトのパスタソースや回転寿司は口に入れるまで味がわからない時があり、ロシアンルーレットとして楽しんでいる人もいるというの目から鱗だった。
いや食べたい味が食べられないことは確かに「障害」と捉えられるとは思うものの、おもしろに変えてしまう人もいるのがとても感心する。
「障がい者」と書かれることで、読み上げソフトで「さわりがいしゃ」と読まれてしまう場合があるという話は、果たして誰にとっての配慮なのだろうとちょっとウーンとなった。ただ、少なくとも筆者はそちらの字を使ったという差異は、とにもかくにもそこで違いがわかるらしい。これも、そういう風に世界を見ているわけだなあとなった。
#読書