個人的には読みやすくするために漢字を開くのはどんどんやるべきだし積極的にやるよう心がけてるけど、考えてみればなぜひらがな表記にするのかの根拠がないなと思っていろいろ調べてみた
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まず一般によく言われているのは「漢字3割、ひらがな7割が読みやすいからあまり漢字を使いすぎるな」という言説。ただ、これだとわざわざ副詞を積極的にひらがな表記する理由にはならない。また、「副詞の漢字表記は硬い印象を与える」「副詞の漢字表記は一般に使われないことが多い」といった言説もあるが、これも根拠としては弱い。

「本来の漢字の意味とは離れた用法の漢字はひらがな表記すべき」という論も見受けられる。形式名詞をひらがなで表記すべきという点についてはこれが根拠だろうし、副詞もある程度ここに当てはまるものはありそう。(ex.「色々な」「様々な」「若しも」)

とか言っていたら、
副詞の漢字表記について論じている文献に出会った。なるほどなあ。

また、
漢字は視覚的弁別性が高いことを指摘する文献もある(この文献では、漢字3割法則は結果論だとしている)。少し論が飛躍している気もするけれど、ひらがなで表記されていることによって「この句は修飾句である」と読み手に暗示している可能性もあるかもしれない。

ただ、本ノート第2段落の論の逆で、「漢字の意味に沿った語は積極的に漢字表記すべき」という、前段の論とは矛盾した方針も考えられ、結局のところ程度問題なんだよなあという結論になってしまった。なんだこのオチは。

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そしてこんな論をこねくり回している間に、引用したかった元ノートを見失ってしまった

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山陰圏の結びつきの話だと「山陰合同銀行」も非常によいとされる

というか「合同銀行」っていう字面も響きもいいし「ごうぎん」っていう略称も良すぎる

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2日連続で東京に出張するのめんどくせ〜〜〜って言いながら雑にホテルに泊まるなどの多岐に渡る活動をしているけど、妙に森下にビジホが多いし料金水準が低いなあと思って調べたらどうやらドヤ街の名残らしい

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山間の町に国道の起点ばかりが集まっている風景、不思議すぎる

RE:
https://misskey.backspace.fm/notes/9qogiooo9u

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:flag_gunma_pref:といえば上毛かるた🕊️

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国道の起終点一覧を眺めつつ羽根尾の国道三起点について考察してみた
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①そもそも起終点の概念が鉄道と違う。一級国道から分岐する形の二級国道だと、一級国道との分岐点側ではなく目的地となる場所が起点になりがち。(cf.130〜133号など)

②ある地域を貫通する国道を指定するとき、その地域の中心都市を起点とする2本の国道として指定することがある。(cf.119, 120号、147, 148号などなど)
終点ではなく起点になるのは①による

②を踏まえると、吾妻地域を貫通する国道は中之条、原町、長野原のいずれかの市街地を起点として指定すべきな気がするけど、いずれもそこまでの求心力はないし144号・146号の重複区間が長くなってしまう。ええい、なんもない山奥だけどかまわん、実際に3本の道が分岐するところを起点としたれ!……って感じだろうか、知らんけど


ちなみに、重要都市は「人口十万以上の市」と定義されているらしく、それに当てはまらない地点を起点にしようとする場合(119, 120号の起点の日光、144〜146号の長野原、147, 148号の大町など)は「建設大臣が指定する重要な飛行場若しくは国際観光上重要な地」に指定していたようだ。長野原、小林、垂水、弟子屈あたりはかなり怪しいが……まあこれは国道指定のための方便なのだろう

まあまだ
Wikipediaくらいしか読んでないわけですが

気付きがあったので続き
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ああそうか、二級国道のWikipedia見てて気付いたけど、当時の道路法の定義上、沿線に二つ以上のがあれば一続きの国道として指定してあげればいいんだけど、一つしかないときは(ではなく)重要都市を起点とする2本の国道として指定しなきゃいけないんだな(cf. 159, 160号)

ただし、重要都市が1個もない地域は仕方ないから「建設大臣が指定する重要な飛行場若しくは国際観光上重要な地」を1個決めてやったわけか なるほどなあ

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「シンカンセンスゴイカタイアイスを車内販売で買う」という儀式は無くなったけど、「シウマイ弁当を買って車内で食べる」という儀式は無くならないんだろうなあと思いながらデザートのアンズを口にしている:mogumogu_akari:

RE:
https://iwshkey.com/notes/9oi2ya38scyoqywz

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岡津 明日香/okaz (@_okaz)
2024-03-17 00:17:04 パトラッシュ🌱の投稿 kunio_miracle@iwshkey.com
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RNを読んだ感想
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「受け皿としての淫夢」という考察を読んで、実はこれボイロ(広義)との関連性があるのではないか、という気がしている。特に「創作が自由」という点はまんまそうだし、「語録による交流」という点についても、キャラクター性に依拠した交流、と読み替えることで共通性を見出せそう。
実況動画や解説動画というフォーマットで任意の事物の愛好家との繋がりが構築できるということもいえそう。
音声合成ソフトに関する創作がニコニコ動画上での一大文化に成長した要因も、このあたりの共通性が影響しているかもしれない。

一方で、「表に出ない/出せない事」という点については、(オタク文化をあまりおおっぴろげにしたくないという点では部分的にそうかもしれないが)ボイロ(広義)については当てはまらず、このあたりが文化的な差異(そして個人的に好んでいる好んでいないの差異)の要因になるのかなあと思っている。

また、

オンライン空間での交流において、自身が依拠するコンテンツやジャンルを求められる状況は多い。テキスト掲示板はその多くでスレッドが話題によって区分されており、元の話題から大きく逸れた交流は「スレチ(スレッド違いの略)」と称し忌避される。こうした状況下で、淫夢はその曖昧な定義と語録による明確な境界によって、本来零れ落ちてしまう情報を拾い上げ、それを堂々と発信する権利を与える。
というあたりで、ふとぼすきーの「ジャンル外」に関する文化を思い出したり。

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「理想郷」は千葉にあった——
(大正時代に別荘地開発のために名付けられたらしい)
https://x.com/_okaz/status/1771780591253414295

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:io:民だいすき与謝野晶子もここで数多くの歌を残したらしい