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@yossi@mstdn.jp
自由
意思は、人がそれによって行為する本質の機能である。聖マキシムによれば意志は、本質、あるいは本性に準拠しているものに向かって本来の力である。その力は、本質や本性のすべての欠かすことのできない属性物を包み込むものである。
聖マキシムは、すべての理性による本質が向かうはずである善への欲求に等しい、この本質による意志と人の特質をつくる選択的意志と区別する。本質は、意志し行為する。人は本質や本性が意志するものを受け入れたり、拒絶したりして選ぶ。しかしながら、選択の自由は、いまだ不完全の印である。それは、人の真の自由の限定である。完全なる本質や本性は、本来何が善であるからを知っているから選択の必要はない。

ああ、電池が

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@yossi@mstdn.jp 真の自由は、このような知認のうえに基づいている。人の自由選択は、聖なる肖、あるいは、神と似ていることの喪失で下落した人間性の不完全性をあらわす。
罪によって曇らされた人の本性は、もはや真の善を判別できない。常に本質の逆にあるものに向かう。それゆえに、人は常に選択の必要性に面している。このことは、暗中模索しながら歩んでいる姿にあらわとなる。善の方に向かって上昇するこの彷徨は、自由意志と呼ばれる。
神と合一することが求められ、恩寵によってその本性が、神の本性である聖なる本性と完全に類似を示すことが求められているはずの人が切断された本性に縛られ、罪によって損なわれ、葛藤のうちの欲望によって引き裂かれている。人間は、このように不完全な性(しょう)を通じて、知ったり、意志したりしている。実際には、盲目で無力である。この性は、もはや良くは選べなく、しばしば罪の奴隷になる、ある本性の衝動に負ける。

すみません
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@yossi@mstdn.jp 神の像に創られたはずの人のなかにあるものが、ここにおいて常に選択の自由と神への新たに帰り行く可能性を留保しながらといえども、深淵に引き込まれてしまうのである。
人間は
完全なものとして創られたが、堕罪のまえのアダムを順なる本性とか、神化あるいは聖化、そして浄化された人と理解してはならない。人間は、自由に置かれていた。人の意志は、神化に向かうべきことは、神の命令であったが、逆の方向を選んだのである。
聖マキシムによれば、愛によって創られたものと非被造物による本性の結合が、人に求められていた。これらのふたつ(*)は、恩寵の獲得を通じて合一と同一化を示す。この合一と同一化は、人であるということに表現されている。
かくて、人は恩寵によって自分の創られたあり方のなかに、ふたつの性(しょう)を結びつけるべきである。人は、このことによって、創られた神、恩寵による神となり、人性をとつた神の性であるハリストスと対比できる。

ハリストス論
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@yossi@mstdn.jp ハリストス論(神子のエコノミア)
神が人と同じような身体を有せられたこつとは、人が聖化されて神となることと互いに相応し合っているようである。この二者は、お互いに意義付け合っているものである。この神性と人性の結合は、神の永遠なる教義において決定されたと見るのが教会の立場である。
「アダムは、己の存在のなかに宇宙のほかの違った諸領域物を結合させるべく運命づけられていた。神との合一をとおして諸物のうえに神化が与えるためである」(アンビグア)