今までの疲労からなかなか回復できず仕事でうまくいかないことが続いたのと、身内のしんどいが続きかなり参っている状態が日々積み重なり、体調の悪化に伴いメンタルも大暴落しましたわ。かなりギリギリのところで保っていた自覚はあったので「やばいやばい」と思いつつ発散手段もなくお薬で繋いでいたので「ついに来たか」となりましたわ。本来であれば言語化して日記として消化することでセルフケアできれば良かったのですが、簡単に言語化できない固有事象が積み重なっていたので、かなり深めに沈みましたわ。
基本的に病んでいたテーマは「私が群れに溶け込むために一番不要なのは『私』という自我だ」というところでしたわ。
これは、言語化困難な固有事象それぞれは語りありふれた「物語」で、それを言語化困難にしているのは、受け手が「私」だからだ、というところからですわ。
「私」とは、「ありふれた物語を言語化困難な感情として受け止めてしまう難儀な認知をしている」というところと「ありふれた物語を特定のタイミングで経験した自我である(その為、先に挙げた認知を「人生経験」として学習して獲得してしまっている)」という意味合いで使っていますわ。
そもそも人間というのは↑の要素によって多様な有り様が生まれるわけですが、社会という「群れ」の中では過度な「私」はノイズになりますわ。群れに適応するためには -もう少し砕けた言い方をするなら「他者と強く繋がっていくためには」ー 過度な「私」は持たず、ある程度アプリオリな語彙の繋がりで語ることができるくらいの「私」な方が共感を獲得し迎合しやすいですわ。わかりやすい言葉で語れない感情や認知で群れの中に入っても、結局「わかりやすい言葉で語れない」ものの厚みだけノイズが走り続けるんじゃないかと思いますわ。
また、問題を困難にしているのが、私の体験している事案が基本的に「ありふれた」ものということですわ。
人間は全く経験したことがないことには寛容(暫定表現)ですが、多少経験したことがあるものには不寛容(暫定表現)になることがありますわ。全く経験したことがないことに関しては自分の中に参照可能な感情がないので想像力が及ばないですが、自分の中に参照可能な感情がある「ありふれた経験」に対しては自分がストックしている感情を代入する余地が発生する、つまり、想像力が及んでしまいますわ。想像力が及ばないものに対しては(極端に拒絶する人はいれど基本的に)安牌として寛容な態度を示しますが、想像力が及ぶと途端に相手の感情の文脈を無視して自分の感情や意見を代入して判断してしまうことがありますわ。これは、「話を聞く」とか「相手を慮る」能力の手前の、人間そのものの機能の欠陥だと思いますわ。バリエーションはあれど、あらゆる人が平均的に体験したり見聞きしたことのある「人生やってりゃ、まあ、ある」みたいな経験は、自分の経験を参照して相手の状況を想像することが多くなりますから、相手の感情を尊重することが難しくなるように感じますわ。要は、「経験」に紐付く「感情」に、未知の感情Xが挿入される余地があることを見逃してしまう、なんなら否定してしまう、というイメージですわね。
だからこそ固有の感情Xに名付けをして説明したいと思うのですが、やっとのことで言葉にできても、「それはこの経験対して紐付かない感情だよ/大袈裟な感情だよ/歪んだ捉え方をした感情だよ」のジャッジをされてしまう。
今までの経験や脳内の社会/誰かの声で、「違う」と言われ続けてしまう。
そして、「ありふれたこと」から未知の感情Xを引き摺り出してしまうのは紛れもなく「私」で、ということは、私が「私」だから、この感情Xや他者との隔絶に向き合わなければならないということ。
「私が群れに溶け込むために一番不要なのは『私』という自我だ」という結論に辿り着くだけの脳内会議をげろげろ泣きながらぐるぐるまわし続けている数日でしたわ。
もうほんと、会社行けば涙が出てくるからずっと涙目でズビズビ言いながら、口を開くと泣いてしまうので一生無言で無愛想MAXで仕事して、帰ってきたら眠れないけど寝るしか出来ないみたいな日々なので、頭おかしくなるかと思いましたわ。ていうか、半分頭おかしかったですわ。孤独に耐えかねてイマジナリーフレンド作ろうとしましたし実際実践しましたし、したもののイマジナリーフレンドにすら「タヒなない限り楽にならないよ、楽になりたいなら飛ぶのが確実だよ」と言われる始末。絶望ですわ。イマジナリーフレンドすら私に優しくない。