このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
天才博士「なになに?Fediverseでアカウント登録するサーバーに迷っている?そういうときはSNS廃気味で毎日投稿したり浮上しまくってる鯖缶のいるサーバーを選ぶとよいぞい。人間としてはダメダメで終わっているがSNSに関することだけは自分の依存先でもあるから対応が早い傾向があり、ユーザーとしては都合の良い存在なんじゃ」
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
>在野からの普遍性の主張
これに近いことを最近考えてる。
ぼくが身をおいている学会とかでは、昨今作品の読みの精度は高まっているけど抽象的なものになりすぎている気がする。作品を非常に抽象的なものとして捉えることで読みが成り立っているというか…。
でも、その成果の社会への還元を考えたときに、果たしてどれだけ理解してくれる読者がいるんだろう、と良く思う。
つまり、ぼくらがやってることって、全然普遍的じゃない気がしてきてるんだよね。
社会的効能を考えずに謎を追究するのもあっていいしそれは楽しいんだけど、ぼくとしてはもっと社会が何を求めているのかを汲み取って、それに寄り添う形で研究を進めたい気がするんだな。
で、今のところ出てる結論が、①具体的かつわかりやすい形で「もっとこう読むとこの作品は面白くなるよ」ということを伝えること。②この作品を読みたい!と思ったときに手軽に良質な本文が手に入れられる環境を作ること。
これをすることがアカデミアにいる研究者の1つの役割なんじゃないかな、と思ってるよ。
はこべさん @hakobe の書かれたnote記事に感銘を受けると共に、Fediverse宗教方面担当者(そんなものはない)としてなんらからの応答をしたいと思いましたので、記事を書きました。
恥ずかしい雑文ですが、よろしければ。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。