子どもの頃の自分にとって、特別だった何かというのがいくつかある。その1つが風船だ。
理由は上手く説明することはできない、あるいは忘れてしまったけれど、風船という物が特別な物だと感じていた。
昔、自分の家では常備薬を取っていて、月に1回ほど薬を届けに来てもらっていた。
子どもの頃は「トヤマさん」と呼んで、家に来るのを楽しみにしていた。正確に言うならば、薬と一緒に置いて行ってくれるゴム風船が楽しみだった。
受け取った薬を薬箱にしまう祖母の元に行って、風船くれた?といつも聞いていたのを覚えている。
消毒液だとか胃薬だとかの匂いに混じって、カラフルなゴム風船が3つほど。
子どもの肺活量では膨らませることができなかったので、祖母に頼んで膨らませてもらっていた。そのまま祖母と風船バレーを遊ぶのが好きだった記憶がある。
膨らませた風船も日を追うごとに小さくなって、やがて中の空気がすっかり抜けてしまう。
子ども心にどうして小さくなるんだろうと思っていたし、もしかしたら限られた期間しか膨らんでいてくれないことが特別感に拍車をかけていたのかもしれない。
ある日、確かどこかのショッピングモールに買い物に行った時だったと思う。いつも遊んでいる原色のゴム風船ではなく、銀色のキラキラしたバルーンが紐に結ばれて売られているのを見て、どうしても欲しくなって買ってもらった。
離さないようにと念を押されていたのだけど、買い物を終えた後に母の生家の庭で手を離してしまったことを覚えている。
気付いた時には空高くに昇っていて、見えなくなるまで、見えなくなっても空を見上げていた。
子ども時代の自分にとっては、風船バレーのイメージが頭の中にあったので、待っていればあの風船も落ちてくるはずだと思っていたからだ。時間にしたら30分にも満たなかったのかもしれないが、記憶の中では2時間も3時間も待っていたように思う。
石ころだったり葉っぱだったり、庭にあった物を頭上に放って、他の物はみんな落ちてくるのに風船だけは落ちてこないことを不思議に思っていた。
雨が降ったら雨に押されて落ちてくるのかなぁ、とか。空の上には何もないから、ぶつかって割れたりはしないはずとか。いろいろ考えていた。
母の生家から帰る時間になって、風船がまだ落ちて来てないから嫌だと言い張っていた。
確かその時は、飛行機みたいにずっと遠くの方に落ちてるよ、山の向こうの子が拾ってくれてると思うと父に言われて、キラキラした風船を拾って遊んでいる子をぼんやりと想像して、それならいいかと思って帰った記憶がある。
この時の感情は割とはっきり覚えていて、風船が無くなることは嫌だったけど、風船が「自分の手元から」無くなることは嫌ではなかった。
それから小学校に上がって、手を離した風船は上空で割れてしまうということを知った。
風船バレーと違って落ちてこない理由も知った。
風船はいつの間にか特別な物ではなくなっていた。
あの時の風船みたいに、「自分の近くに無くてもいいけれど、どこかで存在していてくれればいい」と思える物は何かあるだろうか。
子ども時代に飛んで行った風船は、もう戻って来ないのだなとしみじみ思う。 #日記