漱石と花袋のケンカおもしろすぎる。わたしは花袋の評論も好きだが、漱石のこれも好き:
「小生は小説を作る男である。そうしてところどころで悪口を云われる男である。自分が悪口を云われる口惜し紛れに他人の悪口を云うように取られては、悪口の功力がないと心得て今日まで謹慎の意を表していた。しかし花袋君の説を拝見してちょっと弁解する必要が生じたついでに、端なく独歩花袋両君の作物に妄評を加えたのは恐縮である。」(夏目漱石『田山花袋君に答う』)
ぜんぜん恐縮してない。かくありたい。
漱石と花袋のケンカおもしろすぎる。わたしは花袋の評論も好きだが、漱石のこれも好き:
「小生は小説を作る男である。そうしてところどころで悪口を云われる男である。自分が悪口を云われる口惜し紛れに他人の悪口を云うように取られては、悪口の功力がないと心得て今日まで謹慎の意を表していた。しかし花袋君の説を拝見してちょっと弁解する必要が生じたついでに、端なく独歩花袋両君の作物に妄評を加えたのは恐縮である。」(夏目漱石『田山花袋君に答う』)
ぜんぜん恐縮してない。かくありたい。
「いのちの輝き」
灯火消えんとして光を増すと申しましてな
“750個の石をネックレスのようにつるす万博休憩所、若手20組の1組である工藤浩平氏” https://htn.to/26ZTK3rxtJ
UMA Summer楽しい
おもしろいインタビューだった。人間がとても大事にされているし、大事にしようとみんなが思っている感じがする。
"Cell scientist to watch – Alexis Barr | Journal of Cell Science | The Company of Biologists" https://htn.to/3ukqUhuLjk
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人権や環境問題を冷笑するような露悪的な人たちは強そうに見えるのか、彼らの機嫌を損ねるようなことを言わないように振る舞う「心優しい」人たちを、その周囲に大量に生み出す。
構造的差別のようなさまざまな社会の理不尽に対して怒りや悲しみをおぼえていながら、親しい友人や配偶者の機嫌を損ねまいとして、自分自身の怒りや悲しみと向き合ったり言語化したりすることができなくなってしまったかつてのネット上の友人たちの顔がいくつか思い浮かぶ。切ない。
@summercontrail そういうの、正面から理解し合うための議論をサボりつつ、同じ感覚(何かしらの特徴を有する集団への偏見)を共有する仲間と目配せし合うだけの、怠惰でズルい態度だと思っています。
たとえば「リベラルな思想は『正義』であって絶対的に正しく否定されることはありえないという感覚を持つ」人に対する反感を表明している人をXで見かけたとしよう。
わたしなら、反感を表明している人に、あなたが反感を抱いている相手は、具体的にどういう思想について「正義」であり、絶対的に正しく否定されることはありえないという感覚を持っているのですか? とまず聞くところから始める。
そして、あなたが反感を持つのはなぜですか? と聞く。相手が、その思想についてそういう感覚を持つのはおかしいとか不当だと思うからですか? それとも、相手の感覚は正しいと思うけど何か気に食わないからですか? と続けて、以後具体的に言語化して理解を深めていきたい。
実際、わたしは星野さんの記事を読んでそういうことをしたいと思った。さらに聞かないとわからないことがたくさんあると思った。
あれを読んで「完璧に理解した」と思える方が危ないのではないだろうか。
そういう丁寧な解きほぐしやすり合わせ、クリティカルなケンカをめんどうくさがり、なんだか正しそうなことを振りかざして悦に入っているアイツの態度が気に食わない、という感情を「無謬性」という言葉にふわっと託して処理して終わりにすることこそ、不毛ではないか。
そういう怠惰な態度は不毛であるばかりか、「人権の尊重」そのものを否定したり、あるいはそれを口にした人を嫌悪し、叩いてよいとみなす、というような、Xでよく見られる攻撃的かつ露悪的な人たちをも生み出すだろう。
ケンカは個別具体的に丁寧にやろうぜ。
「無謬性掲げ攻撃しあう虚しさ」と言うが、「無謬性」という言葉も最近乱暴に使われすぎているように思う。
どういう主張や行動がどういう条件下で無謬なのか、あるいはそうではないのか、という丁寧な解きほぐしとセットでなければ、それこそ振りかざすべきではない言葉のはずだ。
たとえば「人権の尊重は絶対に重要だ」と主張しながら、ある集団の人の何らかの人権を優遇し、別の集団の人の何らかの人権を蹂躙する行動は無謬ではない。
単純な話で、主張それ自体は単独では無謬であったとしても、それが行動の正当性を裏付けるものとはなっていないからだ。
そういう場合はそう指摘して、利益を調整していこう、という方向ですり合わせていくのがいいと思う。同じケンカするならそっちの方が気持ちいい。
個別具体的な話をせずに、乱暴に人間にラベルをつけて振り分ける議論は、ここ10年以上ネットでよく見かける。
それをやると、皆てんでに自分の嫌いな「アイツ」を思い浮かべて、「アイツ」が含まれていそうな集団に敵対者のラベルをつけ、集団ごと攻撃し始めるから、Xとかはてなブックマークとかが大荒れになる。
この記事がまさにそういう流れを生んでいる。
星野さんは「そこに呑(の)み込まれたくなければ、文学の言葉を吐くしかない」と最後に述べているが、この記事を文学の言葉で書かず(書けず?)、「究極の個人語」を紡ぐことをしなかったのはなぜだろう。
“言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸:朝日新聞デジタル” https://htn.to/3rcxXV1dHx