昔受けたS●I3の診断結果を見てしまってだるい
面接で確認すべきポイントと質問例
- 対人面の繊細さ
- フットワークの悪さ
- 目標の低さ
- 思考の固さ
昔受けたS●I3の診断結果を見てしまってだるい
面接で確認すべきポイントと質問例
世の中に求人は色々あるし、焦らなくてもどれかには採用される気がしてきたぞ(根拠のない楽観)
LinkedInにいろんなエージェントから勧誘が来るなあ 英語でも勧誘がくる(プロフィールにビジネス初級って書いちゃってるから)
一度日常会話レベルに直しておいて、ちゃんと英語のビジネスができる自信がついたら/試験を受けてそれ相当の英語力・文化理解を付けたら、ビジネス初級にするわ (英語って日常会話の方が難しくない?って思うけど)
日常会話レベルの方が fluent 感強いな (これが日本在住者特有の感覚なのかは知らんけど)
日本人と日本語で喋るのも緊張する/たまに困難になるのに、色々な文化の人と英語で喋って戦えるのかって言うと難しいと思う(英語でメールやチャットするぐらいだったら全然平気なんだけど)
チャットやメールで英語を使うのに抵抗がないレベルの英語力、「日常会話レベル」より低かったりしないか?
My English is poor but may be enough to understand what I mean.
普通に、その前の問題をマシンパワーでゴリ押しで解答したから、デバッグする時間がなくなってダメだったのでは
アルゴリズムを工夫する方が早いのか、マシンパワーでゴリ押したら早いのか、微妙なラインがあるから、競技プログラミング難しすぎる…
なんか、人に嫌われないように振る舞えば振る舞うほど、人に嫌われるんじゃないかという不安が増すことに気づいてしまった…
なんか、相手が自分を嫌わないのは、自分が嫌われないように頑張って接しているからだという意識が強くなってしまって、嫌われないためにずっと頑張り続けないといけなくなってしまう
政治的な話だから敬遠したというより、BLM運動の公正性を信用できなくて加担したくないって思ったんでしょ BLM運動の正当性なんてのはアメリカの事情・文脈を知っていればこそ判断できるものであって、コンテキストから離れた日本人がそこにコミットしなかったことを、「政治的な話だから敬遠した」とするのは雑過ぎない?
「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を持ち出すのもなんか違うというか、これは俺には不条理を詠んでいるものだと思うし、これを反省して「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」に反対の声を上げるのは無理だと思う
人が「自分は関係ない」という態度をとることで、全体的な破滅をもたらすというのはあることだろうけど、それに対して「なんでもジブンゴト化する」を持ち出すのは原理的に無理だろうと俺は思う
たとえば何らかの日本企業などが BLM への参道を示したりしていて、それに対して「なんで言及するんだ」的な反応をしている人はそこそこいたように記憶している。
その人たちの中では「人権などという政治的な話題に言及することはその企業の業務ドメインではないし “避けたほうがよかった”」ということになっていたのだろうなと。
まあ勝手な推測や曲解だろと言われるとそうかもしれないけど……
タブー視とまでいかずとも、政治的な話題に言及することそのものをマイナスな行動であると捉えている人々は多くて、うーんという気持ちにというか……
そもそも何が政治的な話題なのかよく分からん… 政治的な話題に言及することがマイナスな人にとって「オリンピック楽しみ」って発言することは政治的なんだろうか
人権はBLMを支持する要素のひとつでしかないし、黒人の境遇を重視してBLMを支持する人の中に、アジア人にヘイト向ける人がいたとしても、別に矛盾はない
政治って複雑で、「フリーソフトウェアは素晴らしい考えだけど、FSFはRMSを下ろさないから干すわ」みたいなこともあるしな…
ただ言及する当事者 (私人あるいは組織) が何かしらの判断基準で社会運動や問題などについて意見 (支持なり反発なり) を発したとき、それが企業が社会的責任を果たそうとしているものと見られず「余計なことに手を突っ込もうとしている」と見られるのは残念というか、その意識変わってほしいなぁと思ったという話でした
俺はその「政治に関わるな」を文字通りに取る必要はないというか、それは単に「俺はそいつが気に食わない」を政治的に言い換えているだけだと思っている
だから、ジェネラルに「政治に関わろう」って言ったって、具体的な社会運動や問題についての「そいつが気に食わない」の部分が変わらなきゃ意味がないだろうし、なんとかして、その社会運動や問題自体への意識を高める方法を探るしかないだろうと思う…
「政治に関わるな」という政治的な文句を無効化したいという点で、「政治に関わろう」というのは大事かもしれないけど
なんというか、「「政治的」アレルギー」があるんじゃなくて、「アレルギー」が生じるものを「政治的」と呼んでいるというのが俺の見解
「オリンピック楽しみ」も、そこに「アレルギー」(人の反発)が生じるなら、それは政治的発言になる…
その通りっぽい、環境問題も確固たる根拠のあるものから飛躍したものまで全部まとめて「政治的」なものとして解釈することでスッキリしたがる人はときどき見掛ける
まあ実行可能な解決策を用意・遂行するうえで政治が必要であることは間違いないけど、それを理由に全てがパワーゲームの道具にすぎず本質的な問題など存在しないと捉えるのは過激がすぎる
「自分が見えている範囲で、できることをやる」というのはポリシーとしていいものであるはずだったのだが、情報技術が「見える範囲」を無分別に広げてしまったせいで、「見えるけど、やるべきでない領域」が大きくなってしまっている…
グローバルニュースが簡単に見れるようになったけど、ちゃんとローカルニュースを見ていますか? 自分の隣の人を見れていますか?
人と話が致命的に噛み合っていないということはないはずだけど、ほんとは噛み合ってないのに相手が噛み合ってるふうに装ってくれてるだけなんじゃないのかって思ってしまうことがある