連合TLでおもしろいと書いているポストをたまたま見かけて読んだ。
日本人は悠長であきれる、みたいな一節が、ウィレム・カッテンディーケ『滞在日本抄』(1857年頃)に残っているらしい。そこからはじまって、時にまつわる12本の論文が掲載されていた。
悠長といっても、そもそも時計がないわけで、1700~1800年頃は定香盤(おおむね一定速度で燃えるお香を目安にしたもの)+時鐘・時太鼓が主流だったそう。その後機械時計が出始めるが、最初は時計のほうが精度が低く、むしろ定香盤で時計を合わせていたらしい。
時計も定香盤もなければ、隣の鐘を聞いて自分のところの鐘を鳴らす「受け撞き」形式をしていたとのだとか。
↓の文章、「ほのぼの」が公文書?で使われているのがおもしろく感じた。荷物を宿駅ごとに継ぎ送るとき、時間が定まっていないと厄介だよねという話
>昼夜の時取りや上刻・下刻の用い様は所によってさまざまではあるが、朝の「ほのぼの時分」を卯ノ下刻とし、それを基準に暮相の少し前、申ノ下刻までで時刻を区切っている。また夜中の時刻は、暮相を酉ノ上刻とし、夜明けの「ほのぼの」の少し前を寅ノ下刻とする方法がある。領内の宿駅において、刻付けの用い方がさまざまであっては不都合なので、この方法に統一したい。(毛利家文庫「旧記」・「大記録」)
役人はだいたい朝五ツ(8時くらい)までに出勤だが、番食(まかない)無しで家で食べてくるなら朝五ツ半~四ツ(9~10時)でよいとか。案外ゆとりある。不定時法って2時間枠くらいで動けばいいのが現代から見るといいなーと思ってしまう。
あと不定時法は夏冬で長さ変わるんだよな。相対性理論の時間の長さが違う件とか、いまいち理解が追いつかないけど、昔の人のほうがそんなもん当たり前やんけとなるかもしれない(?)
悠長でいられなくなってきたのは、1870年頃の鉄道運行開始、1900年頃の工業化くらいからだった模様。はじめは鉄道職員ですら、問題にならない程度の遅刻はOKだったらしいが、1893年に出された「時計貸与規程」により駅長・車掌などは懐中時計の所持が義務づけられたそう。(ちなみに当時ほとんどの管理者はイギリス人など外国人が担っていたらしい)
1900年代になっても10~20分遅れはあたりまえレベルだったようだが、この辺りから荷遅れが批判されはじめ、遅刻の罰則ができたり、時計が下の層にも広がって厳格化していったよう。
仕事で成功したいなら始業10分前に顔を出し終業10分後まで残れと言ったのはフレデリック・テイラー(科学的管理法生みの親)の伯父らしい。職場の老害さんの小言ではない。逆にこれを教えられてきた世代が、老害扱いされてしまう時代になったということなのかもしれない。
時は金なりってよく言われるけど、意外とよくわからんよねという最後の章がおもしろかった。
古代ギリシャや古代中国にもすでに「時間は金のように貴重であり、注意しないと浪費になる。過ぎ去った時は取り戻せない」という意味のことわざがあったらしい。
一分一秒無駄にせず働けということではなく(それも含まれるといえば含まれるかもだが)、毎日すこしずつでも金を貯めれば資産になる、毎日すこしずつでも文字を書けば本になる、元手があれば利子が増える、時間はかならず流れていくので努力に対する利子はかならず増える(なにもしないと元本だけでなく本来得られるはずだった利子も得られずもっと損)みたいな話らしい。つらい。
休日なにもせず終わると負い目を感じるのはこの辺から来ているのだ。
>「時は金なり」はひとを急き立てることばである。「ひま」の価値を否定し、恒常的な勤勉さを要求し、ゆとりを奪うことばである。それに頷くあらゆるひとのどこかに、不安と焦燥がうごめく。いくら時間があっても余裕がなくなる。忙しさのルーツを問うさい、この心理的圧迫を見おとせない。工場の汽笛やカチカチとすすむ秒針などがまだ日常的に聞こえなかった世界に、労働にしむけるプレッシャーがもう生まれていた。
つらい。
>時は金であるかぎり、時間意識の歴史はこの負い目意識の歴史でもある。
時間が不可逆なのは、我々が生きている世がメジャーな量子系ではなく珍しい系だから(ありふれた状態に移行する前の珍しい状態?)という話もあるようなので、負い目から逃れるには違う量子系に行くしかない
これもへーとなった。
>英語のinterestingという単語がつかわれ始めたのも十八世紀のなかばらしい。いうまでもなく、利息や利害関係を指すinterestと同根である。現代英語でひとの興味や関心を引くものを表すもっとも一般的な、もっとも頻繁に使用される形容詞が、利子を思い浮かばせることばであり、しかも「Time is money」と同じころに流行しはじめたことこそ「面白い」ではないか。
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