でもジーガンフは割を食いましたよね。別に悪くないですよ。今まで散々他人にフォローされてきた人間が今度は自分の感情を抑えて他人のフォローに回るっていう正当な成長物語です。でもあの展開だと皆と共に戦いたいって言う自分の感情を優先したようにしか見えないんですよね。リズクとイルシームの話と同時にイルシームとジーガンフの話をやったって別に混乱しないでしょう?同担拒否?
でもジーガンフは割を食いましたよね。別に悪くないですよ。今まで散々他人にフォローされてきた人間が今度は自分の感情を抑えて他人のフォローに回るっていう正当な成長物語です。でもあの展開だと皆と共に戦いたいって言う自分の感情を優先したようにしか見えないんですよね。リズクとイルシームの話と同時にイルシームとジーガンフの話をやったって別に混乱しないでしょう?同担拒否?
そんな風に考えていたときに思い至りました。アマラークで語られていることってほぼ全部「家族」の話じゃないかって。なんと言っても最後にはジーガンフにまで家族の話があるくらいですし。牢屋の盗人ですら、イルシームと違って家族がいなかったらこうなったということを暗に示しているわけです。ユシュカとナジーンの関係を考えれば、リズクとイルシームが兄弟という考えは別にそれほど自明でもない。家族の話をあえてしようとしてるわけです。なるほど、そう考えるとイルシームとジーガンフの話は友情とかの話になってしまうので筋がぶれると言えば確かにそうも言えます。
感情の相互ケアとか家業の継承の話とかすごく大切な話がされています。しかしね、その大切なことをあまりにも多く家族に担わせすぎではないですか。これは隣にムニエカがあるから特にそう思います。あれは家族の話ではないですが、家族と密接な関係がある共依存の話です。その町の結末があれなわけです。家族が重要なのは当然わかります。でもそんなに称賛していいものですか。それとも、家族には則るべき規範というものがあってムニエカはそこから外れたから駄目なのだ、ということなのでしょうか。
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確かにグランゼニスとの戦いになるとは言いましたけど、まさか7.1で決着がついてエンディングとスタッフロールが流れるとは思いませんでした。いや、流れてはいないかも。
それにしても創生のチカラは愛、ね。
いつの時代も問題になるのは娘を理解しない父親です。7.1のタイミングでアスタルジアにこの会話が追加されたこと。かつてもエステラに父親面した存在がいましたが、それもやはり人間ではなかったこと。この二つはもちろん偶然ではないと思います。
それにしても、ゼニアスに新しい神とはまたどこかで聞いたような話です。実のところ、v7はv6のリブートではないですか。燈火の調査隊は英雄みたいなものですし、ムニエカは天星郷。守護天使を犠牲にしてグランゼニスが復活するところとか、レクタリスを犠牲にして神具を創生したルティアナと完全に一致してます。
v7はグランゼニスとの戦いになるって話した件ですが、あれは別にまだ反省する必要ありません。未だに有効だと言っておきます。
ジア・レド・ゲノスがルーベの体を使って復活したことについて。これって何かに似ているような気がします。要は定められた体に別の意識や魂を移すってことですよね。それって神魂融合の儀と同じではないですか。選ばれた原石って別に神の器って言い換えても問題ありませんよね。なぜ異質すぎる存在であるジア・クトととこしえのゆりかごの眷属に似たような仕組みが見られるのでしょうか。まさかとは思うのですが、実はジア・クトと人間って言うほど異質な存在ではないのでは。
ラストシーン。創失した花がどれだったのか特定できるか。どうしても気になったのでこの件を調査するべくパドレア邸に飛びました。
1枚目のスクショはそのシーン少し前の花壇の遠景です。2枚目は実際のパドレア邸の花壇の写真です。比較するとわかりますが花の配置は完全に一致しています。ここまではいいです。3枚目はアップになって花が創失するところのスクショです。4枚目は実際のパドレア邸です。3枚目と4枚目を比較すると花の配置、位置や向きが微妙に違いますよね。画角は完全に同じです。生えてる草の方に注目すると同じであることが分かると思います。つまりアップになった後のシーンは創失用に花の位置を調整しているということなのです。なので創失した花がどれかは特定できません。というか存在しません。よかった、創失した花はなかったんだ。
「壊れてしまったら 直せばいい」。いつかエドアルドがそう言ったとルーミリアの日記帳に書かれています。私はこの言葉を聞いて遠い昔の記憶を思い出しました。やなせたかし氏が書いたアンパンマンシリーズの初期の絵本の中に「あんぱんまんとばいきんまん」という話があります。簡単に言うと、バイキンマンにやられたアンパンマンをジャムおじさんが巨大に作り直して復讐する話です。あまりに巨大すぎたために屋根を吹っ飛ばすシーンがあるのですが、そのときジャムおじさんがこう言うんです。「やねは、なおせば いいんだ。」 それを読んだ時は幼心に「そんな安いもんじゃねえよ……」と団長と同じように思ったものです。今でもそう思っています。ただ、そんなエピソードを今こうして思い出せるくらいには印象に残っています。
アンパンマンが汚れたり欠けたりした顔を替える時のセリフは「新しい顔よ」だったと思います。思うに、「直す」という言葉には「元通りにする」という意味だけではなく、作り直すという表現が示すように「新しく作る」とか「もう一度行う」のような意味が含まれているのではないでしょうか。おそらくエドアルドもそういう意味で言ったのだろうと思います。元通りにすることも新しく作ることも出来たのだから。
さて、私がマストドンに居を構えようとした時、ある考えが私の中にありました。別にSNSに限らないですが、人間がよその場所に移住したがらないのはそれまでの関係性があるからですよね。そういうものを投げ打つ決断をするには何かが必要です。その時、私の胸にあったのがこの「直せばいい」と本質的につながる発想です。つまり、古い関係にしがみつくのではなく、新しい場所では新しい関係を作り直せばいい。そう考えました。で、私は今ここにいます。
あの絵本を読んだ当時も「なおせばいい」で納得したわけではないし、今でももちろん納得していません。命もヒトも関係も安いものだとは思っていません。ルーミリアの行為は間違っていたという価値判断も揺らぎません。でもね、その思想は確かに私を支えてるんですよ。だからやっぱり私はこう言いたいのです。
壊れてしまったら 直せばいい