いや5月自体もヤバイが…
スープはナンプラーだけでやるの不安で鶏ガラちょっと入れちゃった
でも後から入れてもいいんだから具からだしが出てから検討したらよかったな
自分のばあいは時間の力があり、読み物として聖書にふれた時期、伝道に来るエホバの人と関わった(少なからず「おかしいじゃないですか」「欺瞞じゃないですか」というつもりで)時期、教会に勝手に入って(※開放されている)未信者のままで祈ったり献金してみる時期、ヘブル語聖書を読んだ時期などを経て、10年以上うろうろしている
答えはないと思うが、以下のようなことを考える時がある
・先人にとっても、それは変わらず飛躍だったのではないか。宗教がポピュラーな社会では自動的に信じるかというと、そんなことはないからこそ、「不信仰な世代は奇跡を求める」などと書かれているのではないか
・人にはできないからこそ、できるとしたら神によるというテーゼ
・時間の力
・結果論(過程はどうあれ結果としてそうなったことが重要だと捉える)
これはまさにそうで、選ぶと、その選んだ理由が、選ばれた当のものより上位の基準ということになる。
一方で、まさにこれが改宗にあたって困難を覚える理由であって、「自主的な改宗は結局のところ選択ではないか?」「奇跡に遭わないと改宗してはいけないのか?」という想いになる。「他力によってそのように導かれた」と考えるのは入信「してから」の話で、入信「するまえ」にそう思うのは難しい。そこには飛躍があるし、改宗の後も、長く気にかかるように思われる
の投稿
grif0610@misskey.ioじっさい好きなことをするし、いいと思うからそうする。それを自己紹介などで言語化すれば「好きを追求するのはいいこと」という風になるのは、どこもおかしくはない。
のだが、どうにも「換金性や実利、技術的難易度によって値打ちが裏付けられないと不安だ」という場面でとくに言われるような気がしてならない
「称揚されている美徳はその集団にもともと足りないがち(なのでわざわざ称揚する)」という話があるけど、「好きを追求するのはいいこと」という言説も、わりと不安に基づいて言われるものなんではないかという気が私はする