子供の頃の記憶だけど、一人称として自分の名前を使ってたのから私になった移行のきっかけって小学校に上がった時だったけれど、ハッキリ矯正されてそうなったという感覚があったし、この矯正された感覚は存在している一人称「私」が自分を表す一人称としてしっくり来ない感覚からくるものだったけれど、この感覚は男女問わず起こりうるものじゃない?って気はするんだよな。
子供の頃の記憶だけど、一人称として自分の名前を使ってたのから私になった移行のきっかけって小学校に上がった時だったけれど、ハッキリ矯正されてそうなったという感覚があったし、この矯正された感覚は存在している一人称「私」が自分を表す一人称としてしっくり来ない感覚からくるものだったけれど、この感覚は男女問わず起こりうるものじゃない?って気はするんだよな。
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便宜上おく代名詞としてなら何かが必要なので分かるけれど、「自分」を表す語としては永遠にしっくり来ない感じあるよね……
私も公式絵からスポイトしたら色選びの部分で自分の絵ではなくなるって言われても、やる人はそれを分かった上でやってるんだろうし別に良いじゃんって思うけどな。
それこそ絶対色感のある人ならスポイトせずに色再現は出来る人はいるだろうし、それまでダメなの?ってなるし。(それともスポイトでズルするのがダメなの?)
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それそれ。
下手に色を公式と全く同じにしちゃうと、返って自分の絵のヘタクソさ、魅力の無さが浮き彫りになっちゃうだけだって分かってるから、あまりみんなやらないんじゃない?って思う。
それやって良い絵に出来る人は色を借りたからって次元以上に元々絵が上手くてセンスある人だよ。