09:18:34
icon

もう冗談みたいに当時の細部を覚えてないことに気づく3/11。

埼玉に帰れない人にママチャリを貸して、歩いて帰宅した記憶が。当時の職場にはチャリ通勤してた。まだ月刊誌作ってた。企画途中の特集記事ぶん投げられて病んだ。隣席の人が東北出身の人で青ざめてた。彼の家族が生きていたのがわかったのは、何日も後のことで、みんなで半泣きで喜んだ。

私はPHSだったので、当日のうちに親の安否確認はすんなり。実家の屋根は瓦が多少落ちたが、それ以外は被害なし。親はまだ介護施設に入ってなかった。

揺れてない地域からのお見舞いの連絡は、「あー、この人揺れてないからわからんのだなあ」というテンションの差がつらかった。余震とスーパーの品不足、原発爆発にビビる毎日。細部が欠落した記憶。

09:22:45
icon

東京でもそんな感覚だったから、まして本当に被害に遭った人たちは、「他の地域の人にはわからないだろうな、私たちの気持ちは」と思っているのではないかな。きっと今でも。