おはようございます☀
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
正しさを信奉してる人は、その正しさによってしか救われないのかもしれない。というのを考えたりしてる。
ここでいう正しさは、法や公序良俗というものや宗教的慣習みたいな大なり小なりのコミュニティのためにつくられたルールに適合しているかということ。価値観とも呼べるかもしれない。
ルールを守る性質かどうかはそれぞれ個人の性質の差によることもあるが、ルールを作った者たちに自分が包摂されてるのかも大きなポイントだと思う。ルール自体たくさんあり、ルール同士も対立する。
ある正しさをもって何かを否定しても、それは存在否定にしかならないよねという話。歩み寄るという態度が必要になる。
人は本当に多様だから、ひとつのものさしを基準にして簡単に対立がうまれる。それが無数にあるから、常に不和が発生する。
私は、あるひとつの対立構造を以て完全に関わりを断つのはしたくない。(それを分断というのだと私は理解している)
対立を目の当たりにしたとき、私はだいたいそこから距離をとることで対処している。それと同時に、それぞれの立場からの話を聞いていたいと思う。
ただ、これ、自分が立っている場所がまだ無事だから取れる態度でもある。
中立でいることは安全だけど結局どこの味方にもなれない。どっちつかずというやつ。
一応、私自身にも属する場所というものがあり、そこで脅威が起きる可能性もある。
現実的には私という存在は社会に依存しているので、一人では生きていけない。必要があれば守られる必要がある。
そういうわけで、身近なところで自分にも何か助けになることがないかというのは考えるようになった。
こんな自分にも悩みを相談してくれる人が少なからずいるのだが、その時は話をしてくれる人の味方でいようと思っている。それでしか救われないと思うから。
ただ全肯定はできないし、解決法は自分で探してもらう必要がある。自身の思う正しさ以外の可能性について考えられるかというところまでは、長い道のりだろうと思う。
#るすめも
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
このアカウントは、notestockで公開設定になっていません。
私は文字通りコーヒー分のお金しか出したことはないので何に使ってもらっても気にしないけど(ふぇでぃばーす関係では)、
もちろん出資という意味で支出するなら、使途を明瞭にしてほしいしそれなりに成果がほしいわよね