朝のゴミ出し行ってきました。
おはようございます。
https://anond.hatelabo.jp/20231112225347
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231112225347
これは刑罰の本質をどう考えるかに依るかな。刑罰を「正義の報復」と捉えるカント的な立場に立てば増田の意見も成立するかもしれないけど、私は目的刑論的な立場をとるので、根本的に支持できない。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E7%9A%84%E5%88%91%E8%AB%96
そもそもなぜ刑罰が必要であるのか。ジョン・ロック的な自然権論に立てば、それは「基本的人権を含む個人の権利の侵害」を抑止・防止するためだ。
国家が存在しない(仮想的な)状況下では、個々人が他人からの不当な権利の侵害に対し自然権に基づいて裁き、罰を与えることになる。国家の刑罰権は、元々個々人が持っていた処罰の権利が委託されたものだと(ロック的には)見なせる。
これを前提とすれば、国家は「権利侵害自体が存在しない」あるいは「刑罰の内容が権利侵害の抑止に機能しない」ような刑罰を課す権利は持っていないはずなのね。
一方、カントによる絶対的応報刑論に基づくならば、刑罰の内容が権利侵害の抑止に機能するか否かに関わらず、行った悪事に対して相応の苦痛・報復を以て報いるべき(同害報復の法)、ということになる。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%A0%B1%E5%88%91%E8%AB%96
https://www.ritsumei-arsvi.org/publication/center_report/publication-center21/publication-320/
増田の発想は基本的にこの考え方に近いと思う。
「正義の報復」論の問題点は、同害報復が本当に「行為と罰が釣り合っている」かどうか、の判断が根本的に困難であるところにある。
人の感じ方はそれぞれ違うため、受ける刑罰に対する重みも違う。死刑について言えば、「最初から死刑を望んでいる犯罪者」に対して、死刑という刑罰が行為に本当に釣り合っているかは疑問だろう。
そのように考えていくと、刑罰の基準となる「正義」は何によって決定されるのか、というそもそもの問題があることに気付く。人間社会の倫理規範は普遍的なものではなく、社会のあり方によって変わらざるを得ない。
「正義の報復」論は、正義の基準に対する根拠を明確に定められない。
「個人の権利の侵害を抑止・防止するため」に刑罰を科す、という前提であれば、「刑罰によって実際にどの程度権利の侵害が抑止されているか」という統計的なエビデンスがとれ、刑罰の検証可能性が確保できる。
なので、私は(死刑廃止賛成派だけど、死刑廃止の賛否以前の前提として)「正義の報復としての刑罰」という考え方に反対する。