南亜細亜某地域の吟遊詩人界隈、過去にもニポンにゆかりのある人はいた筈だが、競合ないまま、つまりは識者からの指摘・批評の目に晒される機会もほぼゼロの状態で、知識も実践も、そして心根も明らかに不完全な師事者が好き放題、あらゆることを個人の解釈に捻じ曲げ、個人の解釈を撒き散らすのはどうにかならないものか。
例えば陶芸家が、自身で納得のいかなかった出来の器も土に返すことなく売ってしまい、器の役割は果たすものだった、水は漏れなかった、結果、顧客も満足、これも学び、と心中「外」で嘯いてしまっていたら、以降、その心根は、商人ではあっても表現者(広義)とは思うことが出来ないや。おいらは。